『あんのこと』

 6月7日の封切からまるまる1ヶ月経った水曜日の晩の8時30分からの回を新宿東口至近の老舗映画館で観てきました。

 この映画館にある3つの小規模シアターの中でも一番小さい85席のシアターに入ってみると、観客はざっと数えて60名ぐらいいて、久々に見る高稼働率の上映です。観客は男女半々かやや女性が多いぐらいの割合でした。私が上映開始時間の前約35分前にチケットを買った際にもかなりの混雑が座席表で分かる状態で、いつものように列の端の席を取ろうとした結果、前から3列目になってしまいました。

 観客の年齢層は男女同様に20代後半から70代ぐらいにまで満遍なく広がった感じでした。男女カップルや女性二人連れなどが2、3組いましたが、単独客ばかりといっていい状態だと思います。

 ネットでは話題になっているものの、あまりメジャーなプロモーションが為されていない作品だと思います。新宿のマルチプレックス館では全く上映されていませんが、7月の頭にチェックした際にはこの館と新宿のもう一つのミニシアターでの上映されていて、前者では1日4回、後者では1日2回の上映でした。鑑賞日当日にチェックし直すと、さらに新宿駅に背中合わせに隣接しているこの館の系列館が1日1回の上映を始めていました。(それでも都内全部でも11館しか上映館がなく、1エリアで複数館上映をしているのは新宿しかありません。)水曜日の特別割引1200円ポッキリの価格設定の影響もあったかとは思いますが、封切からまる1ヶ月を経てこの混雑状況を見ると、非常に注目されている作品と考えて良いかと思います。

 私がこの作品に関心を持ったのは、基本的に貧困問題や所謂社会の辺縁の歪みを描く映画だからです。商売柄もこのような人々を一つの極端なモデルとして出発して、クライアント企業のお客や採用候補者を考える必要がある場合もあります。また個人の零細事業者としての立場は、一歩踏み外すとこうした人々と同じ状況と理解した方が良いものと思っていますので、色々な背景からの関心と言えると思います。

 あとは、早見あかりの出る作品を観たいと少々思っているからというのもあるかも知れません。『シン・ウルトラマン』の感想で以下のように書いています。

「 役者の方は、元々お目当ての長澤まさみはかなりの大活躍で、特に巨大化した長澤まさみのスカートの中を映しただのよく見えないだののSNS投稿が乱立する話などは少々笑えました。しかし、それ以上に、観て良かったと思えるのは、チャキチャキ喋る早見あかりです。

 映画で彼女を観る機会はあまり多くありませんでしたが、圧倒的な印象を私に残しているのは『百瀬、こっちを向いて。』と『忘れないと誓ったぼくがいた』です。その後『銀魂』でもそこそこの尺を占めていますが、『百瀬、こっちを向いて。』と『忘れないと誓ったぼくがいた』での透明感のある女性像はとても印象に残ります。他にこのような女性像を演じられる女優をあまり知りません。

 その結果、(ももクロ時代を全く知らない私には)早見あかりのイメージがこの二作の女性像に固定化されていました。それが今回はなかなかアクティブですし、暴れる怪獣を見ても冷静ですし、先述のような、ウルトラマンを見て「これは全裸なのだろうか」とテレビのウルトラマン・シリーズでは絶対に登場しないような至極まっとうな疑問をいきなり表明してくれます。なかなか楽しい発見でした。」

 その後、話題のテレビドラマ『アンチヒーロー』でも中盤で比較的重要な役割で登場していましたが、ここでもストーカー被害をでっち上げるだけではなく、逆にストーカーであると責めていた男性に自分がストーキングをしていて、相手にされない腹いせに被害をでっち上げたというなかなかイカレた役回りで、前述の「『百瀬、こっちを向いて。』と『忘れないと誓ったぼくがいた』での透明感のある女性像」から乖離していて、楽しめました。大分ダークサイドの人物像も出てきたので、その先には何があるだろうかと漠然と多少の期待を持っていた所へ、本作の出演者リストの中に彼女の名前を見つけたのでした。

 ただ観てみるとネット上の前評判などからかなりはずれた内容の作品でした。例えば、映画.comでは特集記事が組まれていて、その中には以下のような心震える文章があります。

「杏のたどる運命は、一体誰がもたらしたのか? どうにかすることはできなかったのか? 自分が杏のそばにいたとして、彼女に何ができるだろうか……。とてつもなくリアルな杏の存在感に、当事者意識が膨らみ、無力感がこみ上げてくる。いくつもの自問自答を繰り返すなかで、自分の倫理観が崩れていく音が、耳元でごうごうと鳴った。

そして不意に思い当たる――自分は、杏に手を差し伸べられなかったどころか、そんな少女がいたことを「知らなかった」。多々羅、桐野、春海だけではない。彼女をあんなに過酷で凄まじい境遇に追いつめたのは、ほかでもない社会の無関心ではないか、と――。」

 映画.comの特集記事に私は比較的注目していて、その評価は私が鑑賞して抱くものとあまり大きくずれないものと感じていましたが、今回は大分外れています。映画.comで特別記事が誂えられるほどの凄絶さは全然感じられない、学芸会的な「そんな風な感じの映画を作ってみました感」が濃厚に漂う中途半端な作品でした。

 前から三列目で鑑賞したことも影響しているかもしれませんが、まず観始めて感じることは、カメラワークの分かり難さです。カメラが被写体に近過ぎて、フレームの外に常に被写体が食み出ているように感じます。特にあんの団地の狭くてモノが氾濫していて薄暗い家では揉め事(物理的な殴り合いなども含めた揉め事)が連発しますが何が起きているのか非常に分かり難い映像になっています。

 さらに、主人公の杏にとって最も害のある存在は実母です。勿論、間接的には杏の置かれた家族関係全体や杏が更正しかかっているのを打ちのめした通称武漢ウイルス禍と社会の反応なども、杏が最終的に死を選ぶ背景要因として大きなものがありますが、実質的に杏の苦境の最大の要因はこの実母です。

 売春以外では働かず、自分が生んだ娘は自分に稼ぎを齎すのが当然と考えているので、杏を酷使しますし、杏にも売春をするよう強く迫り続けます。客なのか交際相手なのか分からないような男を団地の狭い家に連れ込みますし、家事は全くと言ってやらない状態なので、家の中はモノが氾濫しゴミは処分されず、汚部屋状態になっています。その中にこの実母と実母の母(杏の祖母)と杏が三人で暮らしているという状況です。

 杏に殴る蹴るをするのも全く厭わないこの実母を河井青葉が演じています。ウィキで見るとそれなりの数のテレビドラマや映画作品に出演していますが、私にはあまり記憶になかった女優です。ウィキの作品リストを見て、「ああ、そうだ」と思いだした劇場鑑賞作品は『私の男』で、「私の男」の交際相手で、彼が指輪を凍てつく厳寒の北海道の屋外でプレゼントした相手です。自分の交際相手が娘との情欲に堕ちて行くのを止められない女性の役で、目立つ役柄でした。

 本作を劇場で観ている間に、どこかでかなり最近観たと思っていて、ウィキの作品リストで分かったのはテレビドラマの『ラストマン-全盲の捜査官-』でした。痴漢冤罪に悩むエリート官僚の妻を演じていますが、その夫は実は本当に痴漢の常習犯であったことを、夫が殺害されてから知る役どころで、これまたかなり重要な役回りです。

 私が記憶しているのはこれぐらいですが、どうも彼女が本作で果たすイカレ実母が今一つイカレ切っていないように思えてなりません。単に汚れ役に合わないということだけではなく、多分、演出面でこの程度で良しとしようというブレーキがかかっているのではないかと思われるのですが、何か信憑性がないのです。特に杏に対する暴力は殴る蹴るを形の上で放っては、髪を掻き上げ一段落させる…といった様子など、計算づくで暴力を振るうヤクザのような恐怖の演出をしているのか、単に手を抜いた演技をしているのか、よく分からないように感じます。何か彼女の瞳の中に知性や理性を感じさせるものが残っているように見える…と表現した方が良いかもしれません。

 それは自分の息子に財産強奪目的で自分の母を襲うように迫るホームレス母を描いた『MOTHER』の長澤まさみを観ても思うことです。長澤まさみは外見上ホームレスそのもので、本当に路上で寝ていたりしますが、どうも画面から独特の臭気が漂ってくるようなイメージが持てませんし、髪も油と汚れでギトギトになっていて不思議ないはずなのにそのようには見えません。言葉もいちいちきちんと注意を払って発話されていて、読解力やら知性やらが漂っているために、どうしてもホームレスの姿が空回りする演技に見えて仕方がないのでした。

 これら二点は物語の最初から最後まで続き、全体の物語の印象を薄くする結果を招いています。しかしながら、根本的な問題はこの映画の物語設定や制作姿勢にもあるように感じられます。

 まず作り手の意図や映画.comの特集記事の書き手の感じる所と異なり、杏のような人物は世の中にかなりいるという現実が、この物語を空回りする学芸会的な作品に貶めてしまっています。パンフレットの記事で佐々木チワワが、「見えないことにすれば、自分に関係ない物語にしてしまえば、とたんに見えなくなってしまう存在へ光を当ててくれたのが今作だと思う」と述べ、主人公の杏の人生を(観客は)目に焼き付けるべきだと書いていますが、あまり賛同できません。なぜなら、杏のような生活を送る人間はそれほど珍しくもなく、目に焼き付けるまでもなく、日常でも時々視野に入ってくるぐらいの存在に感じられるからです。

 虐待し売春や犯罪行為を強要する母の物語はたくさん存在します。その多くは現実にたくさんそうしたモデルがいるからでしょう。その現実の話はニュースや情報バラエティ的な番組でも時々登場しています。映画ならパッと思い出せるのは先述の『MOTHER』です。他にもドラマや映画で多々溢れているように思います。(虐待し売春や犯罪行為を強要する父の物語が比較的少ないのは、父の方が過剰な行動に出て犯罪化し警察にしょっ引かれ易いからではないかと思われます。)最近人の奨めでDVDで観た『岬の兄妹』も結構イカレています。

 汚部屋の描写にしても、ゴミがビニール袋に入っているだけ大分マシです。例えばドキュメンタリー映画『無理しない ケガしない 明日も仕事! 新根室プロレス物語』に登場する「砂利道 大砂厚」は60代の単なる“おっさん”です。劇中に登場する彼の住まいは一軒家ですがそのほぼすべてがゴミに埋め尽くされています。演出でもなくリアルな情景です。『無理しない ケガしない 明日も仕事! 新根室プロレス物語』の記事にこのように書いています。

「劇中で自身の家の中が長い尺で登場する「砂利道 大砂厚」は、昭和34年生まれです。サムソン宮本が亡くなった2020年時点で61歳です。彼は以前、両親と姉と四人家族でずっと一軒家に暮らしていました。そのうち、彼が若い頃に父が病死し、数年前に母と姉が相次いで病死し、天涯孤独になりました。端的に言って、イケてない人生そのものだったのか、体型は肥満に傾き、目はやや空ろですし、髪も整えることもなく、呂律が回っていないこともありますし、会話がきちんと噛み合っていないこともよくあります。持て余すような広さになった一軒家で大砂厚は一人暮らし、新聞配達を覚束ない足取りで冬の吹雪の中でも続け辛うじて生計を保っています。

そんな彼を生前のサムソン宮本は非常に気にかけ、色々な場に一緒に行ってくれたりしていたと大砂厚は言い非常に感謝しています。しかし、プロレスが好きだという発言は一度もなかったように思いますし、団体に参加したのも、知らないうちにそうされて巻き込まれていただけだと言っています。

サムソン宮本の死に先立って団体が解散し、彼にリングに立つ仲間がいなくなると、大砂厚は孤独に暮らすようになり、酒に溺れ、家はビールの空き缶も山のように積み上がるゴミ屋敷と化してしまっています。そこに解散後のメンバー達が細々の交流を続けようと、そして組織でまた興業を行なうと伝え誘うために訪問する場面があるのです。

劇中で足の踏み場もないような汚部屋にメンバー二人が訪ねて、彼の話を聞く場面があり、「様子を見に来たよ」と言っていますが、少なくとも劇中で見る限り、「また相変わらず、凄い状況だね」のような社交辞令はいうものの、「これは片付けなきゃダメだよ」などと指摘もしないですし、まして、「じゃあ、今一気にゴミをまとめて出してしまおう」などの生活支援に打って出ることもありません。一方で、これでは生活破綻者だから、もう放っておこうというような話になることも決してありません。勿論、サムソン宮本も彼を見捨てるようなことはなかったからこそ、彼がメンバーとして「巻き込まれる」様に敢えてしたのでしょうし、多分、生活面のゴミ出しなどの支援もしていたのではないかとさえ思えます。」

 このような人が現実にいくらでも存在しているのは間違いなく、簡単にこのような事例が見つかるほど有り触れています。精神状況だけを見るなら、杏も極限に酷い状況と見做すことができません。本人自身が教育を受けたがっていますし、現状から抜け出ようという意志を持っていますし、紹介された職場ではきちんと働いていて、寧ろブラック労働をさせる一つ目の介護施設の職場から救い出されているぐらいです。まともな仕事を提供してくれた第二の介護施設の職場ではきちんと働いて、入所者だけではなく経営者からも非常に高く評価されています。これはかなりまともな人間です。

 通常、読解力が低く就労適応力が低い人は、非常にプライドが高かったり、まともにコミュニケーションが取れなかったりして、就労意欲も低く、当然まともに成果を出せないのでお荷物になっているのに自責の姿勢は全く見られず、勤務態度も悪くて無断欠勤を重ねたり、職場で暴れたり騒いだりしたりします。そんな人でも労働力として甘んじて受け入れねばならないような職場もあるので、辛うじて仕事を続けることができているケースは、それほど珍しいものではありません。特に3K的なイメージから人が集まりにくい業種で、そこそこまともな経営者がいない多くの職場では、こうした状況は簡単に発生し得るものです。

 そうした現実に比べて、杏の個人の学びや労働に向かう姿勢は寧ろ中小零細企業に働く人々の平均値を上回っているぐらいです。文字が読めないことでさえ、平仮名だらけの日記を書くことをきちんと続け、夜学の中学にも通い直し、「ねえ。給料って漢字はどう書くの?」などと知的好奇心全開です。塾に入った当初の “ビリギャル” よりよほどマシです。これであれば数年を経ずに何とか仕事に必要な程度の漢字の読み書きはできるようになることでしょう。姿勢・志向だけで見ると、杏は普通以上のレベルなのです。

 映画は杏が警察に捕まる切っ掛けになった、売春相手がオーバードーズで意識を失うラブホテルのシーンから始まります。杏は母から強要されて売春を続けて来ていたはずで、一旦更生した後も、杏を再度引き戻そうとした母から強要されて、簡単にスマホで売り相手を見つけ売春をしています。杏は映画冒頭で覚醒剤を止めようとするまで時間が掛かっています。そして(その依存症状の強さ故に当たり前ですが)人生の重大事として覚醒剤を止めることに臨みます。しかし、売春に関しては母の強要があるとは言え、それほど罪悪感を抱いたり、自死を選ぶほどの拒絶感を抱いたりしてはいません。見る限り杏にとって、望ましくないもののやってできないことはない収入獲得方法ぐらいの位置づけに見えます。

 杏が覚醒剤を打つシーンは冒頭から登場し、自死に至る直前にまた打っているシーンが明確に描かれます。それに比して、杏が売春行為としてセックスをしている姿は一度も描かれることがありません。冒頭のオーバードーズのシーンでも杏はキッチリとキャミソールをまとい、下半身もショーツをずれも乱れもなく履いています。いやいや愛撫されるだの、マグロ状態で抱きしめられるだののシーンも一切ありません。

 泥酔して家に入り込んできた母の交際相手らしい男も「杏ちゃんも一緒に飲もう」などと杏に組み付いてきますが、特に杏をレイプしようともしないどころかまさぐったりもしません。母子家庭における娘の虐待事例ではかなり多くのケースが母の交際相手が性的虐待を娘にもするという展開ですが、そうしたことが全くないのです。

 新宿で立ちんぼをやれば、暴行を受けたり、「フェラが下手だ」などと支払いを拒まれ実質的なレイプ状態になったり、避妊をされないことや性病をうつされたりなど、色々な問題がかなりの頻度で起きます。そうした被害に遭った人々が駆け込む病院が舞台であるから当たり前ではありますが、例えば、現在毎週水曜夜10時からの枠で普通にテレビ放送されている、脚本・宮藤官九郎、主演・小池栄子の『新宿野戦病院』でも当初数話でその手の話が満載に登場します。つまり、それほどに当たり前なのです。杏がコンビニバイトのように気軽に売春で稼いでくること自体が異常性の表現と好意的に解釈できない訳ではないですが、杏がそれを平然と行なっていても、杏の売春意識に関係なく、先述の様な多種多様なリスクは高い頻度で発生するはずなのです。その辺もこの作品は完全スルーです。

 そのような杏を演じる河合優実の目の下にベタ塗りのような隈を作ってのシャブ中熱演は認めますが、売春場面も実質的に存在せず、虐待シーンも基本は狂った母親にぶたれて蹴られるだけというぐらいで、杏の絶望を描いたと言われても、信憑性が乏しく感じられます。自死のシーンさえも、そこに至る直前の杏の表情どころか姿そのものが全く描かれませんし、ベランダからの投身ですが、落ちた音さえしないのです。どこまでも綺麗ごとに感じられます。

 今時、テレビドラマでも多々投身自殺(/突き落とし殺害)などのシーンがあります。ここ最近観た中でも、映画では『怪物の木こり』で吉岡里帆の父の突き落としシーンが何度も再現されますし、名画『祝日』では誰も落ちませんが、学校の屋上からの投身自殺未遂が二度登場します。ドラマでは先述の『新宿野戦病院』では第二話目にしてビルからホストが落ちますし、『院内警察』の主人公の婚約者が病院の非常階段から落ちて落命し、『ラストマン-全盲の捜査官-』では元ヤクザのおっさんが口封じに橋から川に投げ捨てられ、『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。』でも第1話にしてIT会社の女性社員がビルの窓から落ちて死んでいて、『ブラック・リベンジ』では主人公木村多江の眼前で夫、元上司、元同級生と三人もの人間が投身自殺しています。その殆どのケースで、身を投げる直前の表情や声が描かれ、さらに落ちた結果の状況が描かれています。

 だから、杏もそうあらねばならないという理由にはなりませんが、少なくとも、これほど記号化された死の形が有り触れているほどに流通しているのに対して、何か高効果の演出の都合とも思えず、杏の死が描かれないのには、ただの「おためごかし」にしか感じられませんでした。

 例えば、映画『愛の渦』という「大人のパーティー」を描いた作品があります。そこに登場する人間模様そのものがこの映画の主題ですが、主演(だと私は思っています)の門脇麦 “性欲が強いが一見おとなしい女子大生” 役をまさに体当たりの演技で演じています。セックスそのものは体位的に非常に単調でしたが、世の中的には体当たりの演技の範疇でしょう。モチーフが「大人のパーティー」だから致し方ないというのなら、門脇麦は『二重生活』でも映画冒頭であまり物語進行上の必然性が乏しいように見える気のないセックスシーンを菅田将暉とこなしています。

 そうした比較対象を設けると、売春を日常的にしていたはずの杏の描写の中に実質的な売春シーンがほぼ存在しないのは非常に不自然に感じるのです。(ここで言う売春シーンは必ずしもその性行為そのものだけではなく、例えば見知らぬ男と待ち合わせをスマホで決める場面とか、ラブホで無機的に脱衣する場面とか、無造作に金を受け取って数える場面とか、杏の中における売春行為の位置づけが見て取れる場面全体のことを指しています。)最近発生した話題の職業、インティマシー・コーディネータが大活躍した結果なのかもしれませんが、仮にそうであったなら、くだらない作り手都合が中途半端な作品を作り上げた結果であろうかと思われてなりません。

 杏についても以上の通り、中途半端な学芸会タッチが山盛りてんこ盛りですが、他にも作り手の「どうだ凄いだろ!」のどや顔が透かし見えるような設定が多々存在します。例えば、稲垣吾郎が演じる雑誌記者です。この雑誌記者は杏が救いを見出した佐藤二朗演じる刑事の性加害を暴き記事にすることで、杏の更生の道を結果的に断つことになってしまっています。なぜなら、その刑事は「サルベージ赤羽」という薬物更生者の自助グループを主催していて、その刑事と関わりつつ杏は更生の道を歩んでいたのに、刑事のグループ女性参加者(3人)に対する性加害を暴いたことで、刑事は逮捕され、サルベージ赤羽も閉鎖され、杏も含む多くの薬物更生者はその歩みを断たれたからです。

 雑誌記者が刑事に公園のベンチらしいところで、「これを記事にします」と告げる場面があります。刑事は「そんなことをしたらサルベージ赤羽の人間達がどうなると思っているんだ」と迫ります。どうなるかは普通に考えて分かるはずなのに、雑誌記者は「脅しですか」とまぜっかえしてコミュニケーションは断絶されます。文春砲の一連の騒ぎを見れば分かる通り、出版社側は確信犯でこうした暴露を売っています。世の中の常識的に考えてこんなことは当たり前のことです。

 ところがその雑誌記者は杏が自死したことを知り、囚人となった元刑事にわざわざ面会に行き、「僕たちが杏ちゃんを殺してしまったんでしょうか」などとさめざめと泣き出すのです。馬鹿げています。この雑誌記者は年単位の時間をかけてサルベージ赤羽と刑事を観察し続けています。それなりにベテランでなければこうした取材をしないでしょう。それが突如自責・自罰の念に駆られて泣き出すほどに後悔するほど甘ちゃんの設定には無理があり過ぎます。

 こうした雑誌記者にとって自分の仕事によって傷つき絶望する人々が発生するのは日常茶飯事であるはずです。例えば『ブラック・リベンジ』で(この作品では刑事役の)佐藤二朗が演じた雑誌編集長のように、そうした後悔とは全く無縁に煽情的なスクープ記事を出し続けるぐらいが当たり前だと思えます。逆にそうした出版のプロで、関わる人々に本当の配慮もできるということなら、暴くことで発生するリスクを抑制しつつ暴くのが普通であろうと思われます。雑誌記者は刑事と共に杏の心の支えになって来ていましたから、暴露と共に杏の生活を支える努力を全開に行なえば良かっただけのことでしょうし、それさえできない理由は全く見当たりません。

 浅慮としか言いようのない馬鹿げた態度ですが、この雑誌記者は雑誌掲載の後に、その雑誌を突きつけるように杏に見せて、杏から拒絶される立場になっています。拒絶されても尚、杏がどんどん追い詰められていく中で手を差し伸べれば杏が応じる場面は間違いなくあったはずです。関わった人々に極力影響が出ないように配慮するタイプのベテラン雑誌記者なら、そうした手も並行して打つぐらい当たり前です。雑誌の原稿書きと編集を生業にしていたことがある私はそう確信します。

 シンプルに言うなら、暴いて杏が死んだことを後悔するのではなく、暴いて死を選ぶ杏に手を差し伸べなかったことを後悔するのが寧ろこの類の出版のプロの立場ではないかと思えます。全くおかしな人物設定です。

 さらにおかしな展開があります。先述の映画.comの特集記事には、「絶望の後に希望の光が包む重要かつ衝撃の実話」という表現があります。主人公の杏が自死を遂げているのにどこに希望の光が残るのかとずっと疑問に思って映画を観ていたのですが、唖然とさせられました。

 私が観たいと思っていた早見あかりは杏が住むシェルター施設の隣室のシングルマザーのようですが、刑事を失い、雑誌記者は自ら拒絶し、サルベージ赤羽も消え、通称武漢ウイルス禍で介護施設からは自宅待機を命じられ、同じ理由で夜間中学も自宅学習に切り替えられた杏に、おむつを付けている幼児の息子を押し付けてきます。それも或る朝、突如ドアをどんどんと叩き有無を言わせず杏が明けたドアの隙間から息子を捻じ込んでくるのです。

「男とトラブったからちょっと預かってほしい」のようなことを言って、2万円を杏に握らせて走り去っていきます。このシンママは数日後に警察の厄介になっているような場面がありますが、何が起きたのか明らかにされることはありません。無理矢理子供を預からせられた杏はなぜかその子を手放すという発想をせず、(人々とのつながりを断たれた日常の補完のためかと思われますが)全く慣れない育児に没頭して行き、すぐに情愛が湧き始めます。そして或る日公園からその子と帰ってきた際に、付近で杏を漸く探し出した実母と遭遇します。

 実母は「コロナでばあちゃんが発熱して大変だから、何でもいいから戻って来て」と嘘の口実で杏を無理矢理家に連れ帰りますが、その際にその子は人質のように扱われていて、「隼人(幼児の名)だけは返して(/帰して)」と杏は懇願しますが無視されています。そして実母は幼児を放置して「このままでは幼児も飢え死ぬからウリで稼いで来い」と杏に迫るのでした。そして何故かすんなり相手を見つけて杏が稼いで帰宅すると、幼児は消えていました。

 モノが散乱する汚部屋を杏が探し回って、祖母に尋ねても分からず、実母を詰問すると、「泣いて煩いから、役場に電話したら、児相が来て連れて行った。もういない」といったぶっきらぼうな回答をするのでした。杏にとって唯一の人のつながりであり、まともな人間として杏を成立させていた幼児が失われたことで、杏の日常の最後の箍が飛び、杏は再度覚醒剤に手を出し、その後、その自責と後悔に耐え切れなくなって投身自殺をします。

 多分杏の自死を扱う刑事と思われる人物に対して早見あかりのシンママが幼児を傍らに応えている場面が終盤に登場します。シンママは「杏ちゃんがいてくれなかったらあの場のトラブルに対処できなかった。児相から息子を取り戻すのに手間はかかったが、今こうしてあるのは、杏ちゃんのおかげだ。杏ちゃんは恩人です」と答えます。

 刑事は杏の遺体の近くに落ちていた紙きれをシンママに示し「何か思い当たるか」と尋ねます。それは幼児が食べたものを列記した杏のメモでした。それを見てシンママは「杏ちゃんの墓参りに行きたい」と言い出しますが、刑事は「遺骨を母が引き取って行っただけなので、多分お墓はない」と答えます。そうですかと一瞬項垂れたシンママは、そのまま幼児を連れて警察を後にします。その二人の後ろ姿を横から差し込む陽光が照らして映画は終わります。

 私は当初、どこに「希望の光が包む」場面があったのか分からず、薄明かりのシアターを出る途上で、このシンママと子供の未来を実現した杏の「生」の意義があったということをこの作品が言いたいのかということに漸く気づきました。「希望の光」というヒントがなかったら、その趣旨にさえ気づかなかったかもしれません。

 随分ご都合主義な「希望の光」です。杏が地獄のような実家に戻らなければならなかったのは、この幼児が人質に取られたからです。この子が居なければ、一人帰宅した杏は実母を拒絶することに成功していたでしょう。現実に杏は「管理人を呼ぶ」と動こうとしていましたし、祖母の発病という嘘の情報を聞いた時点でも掴みかかってくる実母の腕を振り払おうとしていました。守るべきベビーカーの幼児が居なければ、杏の拒絶の意思は貫徹することができたはずです。

 おまけにこの幼児に情愛を抱いた杏から幼児を取り上げたのが、杏が自死を選ぶかなり直接的な原因になっています。つまり、杏にとどめを刺したのはこのシンママと見る方が無難です。劇中で観る限り、杏はこのシンママと相応の交流があったように見えません。シェルターの生活は基本的に秘密漏洩を遮断するようにルール決めされていますから、隣人との交流も最低限になっていると想定されます。だとすると、嫌がる杏に慣れない子育てを強要したこのシンママの行為が杏の死の非常に大きな間接要因であることは明らかです。それを「希望の光」に祀り上げる感覚が私には理解できません。

 タラレバですが、幾つかの分岐点で違う道を選び取れば杏の死は回避できたでしょう。杏の側で言うと、人間関係が失われ行ったときに、それを回復しようと努力しなかったことが最大のミスでしょう。杏は逮捕されて携帯を取り上げられた刑事に何度も電話していますが、携帯を取り上げられているかが仮にわからなくても逮捕された人間が相談に乗れないのは或る種当たり前です。漢字の読めない杏でも流石にそれぐらい想像できるように思えます。

 ならば、嫌でも雑誌記者に電話して実情を説明することぐらいはできたでしょう。雑誌記者が信用できず連絡したくないということなら、せめて自宅待機扱いになっている職場に連絡して杏を高く評価している経営者に支援を個人的に求めることもできたでしょう。(この経営者は昔「ヤンチャしていた」人物で杏の立場に非常に理解があります。出入りする人間の数を制限するように施設ごとオカミから指導されていたようなので、職場に来ることは無理ですが、何かの相談に乗ってもらうぐらいは確実に可能だったでしょう。実母が職場に乗り込んできた際にも、杏を思いやって実母を追い返したのもこの経営者です。)

 他にも更生途上で杏と接した、サルベージ赤羽の元参加者の誰かとか、(外国人も多いながら)夜間学校の同級生とかも、少なくとも実情を話すだけの相手にはなります。どこまで行動をしてくれるか分かりませんが、夜間学校の女性教諭だって公務員でしょうし、相応に杏の立場や生き辛さを分かっている以上、相談すれば助言ぐらいはしてくれたでしょう。こうした人々に連絡してみようと動き出せなかったのは痛恨の選択ミスという気がします。

 逆に先述の雑誌記者の件同様、杏を適切に理解している人々の方から杏に連絡することがあれば、たとえ電話一本、LINEメッセージ一片でも、杏の死を回避する選択肢になり得たように思います。

 さらに杏の側のミスがもう一つあります。それは、シンママの幼児を結果的に預かってしまったことです。子供を押し付けられた時点で、(杏には役場に連絡するという発想はない可能性がありますが)警察にでもシェルターの管理者の女性にでも連絡して、「自分には子供を育てることはできない。こんな社会状況で感染でもさせたら責任を取れない」と言って、断固として幼児の預かりを拒否するという選択肢です。

 物語上も結果的にこの幼児は児相に引き取られて、母の手に戻っているのですから、杏に預けるというプロセスを経ず児相に回っても何も変わりません。寧ろ、その方が育児素人の杏が面倒を見るよりも良い結果であった可能性さえあります。そのように考えると、余計のこと、早見あかりのシンママの方が杏を煩わせることなく、直接シェルターの管理者や児相に交渉していれば、杏は死ななくて良かったことが明らかになってくるのです。

 このような考えはタラレバです。しかし、こうしたタラレバを踏まえれば余計のこと、シンママの無知と過失によって引き金を引かれた「事故」によって杏は死んだようにさえ見えます。(それ以前に杏の実母は酷いという話はありますが、シンママが子供を預ける段階までは杏はその実母と距離を置いた生活を実現していたのです。)

 このように見るとシンママのこの物語における役割は大きく、全くの嘘っぱちですが「希望の光」を演出して見せた早見あかりは好演だったと言えそうです。

 中途半端な演出の映画ですが、抉って見せたかった社会の断片については理解できます。映画の中途半端さ・不発さはさておいて、鑑賞後にその断片について考えた時、私が毎月二回発行している『経営コラム SOLID AS FAITH』の第545話『天国の跡地』を思い出しました。丸ごと引用します。

「その545:天国の跡地

「何が足りないかはたいして重要ではない。足りないのが時間であれ、金銭
であれ、友情であれ、食べ物であれ、――そのすべてが、『欠乏の心理』を
もたらす。(中略)『欠乏の心理』がもたらす悪影響は、そのメリットをし
のぐ。欠乏はあなたの気持ちを、差し迫った不足に集中させる。五分後に始
まる打ち合わせとか、翌日に迫った支払とか。そうなると、長期的な視野は
完全に失われる。『欠乏は人間を消耗させる』とシャファーは言う。『他に
も等しく重要なことがあるのに、そちらに気持ちを向けられなくなるのだ』」

『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』の
中の「欠乏の心理」の説明。プリンストン大のシャファーとハーバード大の
ムライナサンの研究では、「貧困はIQを13~14ポイント押し下げる」と結
論付けられている。貧困に喘ぐ人に仕事や教育を提供する福祉制度を設けて
も、その存在や価値に気づけない。単に金を撒けばすべて解決する。現実に
ベーシック・インカムで薬物中毒者も減り治安も良くなり教育も皆が望み、
不思議なことに就職率まで上がった社会実験の事例が紹介されている。金を
貰って生活に困らなくなると、皆真面目に働き始めたということになる。遠
い異国の話。

 全く違う世界の話を知っている。宮口幸治の『ケーキの切れない非行少年
たち』。1950年代の一時期、「知的障害はIQ85未満」とされたが、全体の
16%にもなってしまうため、「IQ70未満を知的障害」とし、IQ70から84の範
囲は「境界知能」と呼ぶことにした。欠乏を感じていなくても全人口の16%
は知的な困難を抱える可能性がある。
 
 薬物中毒者も他先進国に比べ少なく、識字率も読解力もトップクラス。治
安は言うまでもない。その日本で真鍋昌平の描く『闇金ウシジマくん』や
『九条の大罪』の中のリアルな人々は生活保護を始めとする福祉を施されて
も全く生活を改めない。この対称を考えていて、ふと第226話『天国の蛹』
でも挙げた曽野綾子の『貧困の光景』を思い出した。

「途上国の多くの人たちは、日本が地球上のどこにあるかも知らず、日本の
現状など知るすべもないが、国家が必ず食わせてくれると聞いたら、それだ
けで、『そこは天国だ!』『私はそこに行きたい!』と叫ぶだろう。」と曽
野は言う。一億総中流は「失われた〇年」とやらで、ジワリと貧困に近づい
た。けれども市場には廉価なモノが溢れ、生活に喘ぐ者も未だ極少で、リス
カをライフスタイルと称する人々さえ存在する余裕が残っている。

 そうか。これら二つの社会観は撒かれる金の限界効用のグラフの左端と右
端だったのではないか。撒かれた金は社会が酷いうちは効果をどんどん出す。
しかし限界効用逓減の法則により、金は急速に神通力を失う。私達は世界で
も稀な天国の跡地にいる。」

 自宅待機なので職場から6割の収入を保障されているのか、杏は通称武漢ウイルス禍下でも経済的に困っている様子が見えません。それどころか最初はいやいや預かった幼児に大量のおもちゃまで用意している余裕ぶりです。杏も更生の道を歩もうとしたときの最大の動機は貧困から逃れることではなくシャブから足を洗うことの方です。そして、仮に前述の通り6割の収入保障をされていて、ベーシック・インカム並みに生活が最低限継続可能な状態でさえ、つながりを断たれた杏は自死を選んだのです。

 シャファーとムライナサンに拠れば、貧困の人を救うのはベーシック・インカムだということのようですが、この作品に出てくる杏の実母のような人間には功を奏する対策のように見えません。生活費を貰っていても杏は自死を選び、実母はだらけ続けるだけでしょう。やはり私が『天国の跡地』で書いたように私達は世界的に見ると「平均的に豊かな生活」を享受しているのだと確信させられます。

 また、この映画に関する記事をネットで検索すると、「過酷な実話の物語」とか「信じがたい境遇」などといった表現が氾濫していますが、それなら嘗ての大平光代による大ベストセラー『だから、あなたも生きぬいて』などはどう形容するのか伺ってみたいものです。個人の人生単体ではなく、酷い社会のありさまというのなら、名画『ダーウィンの悪夢』こそ、その内容を描写してみたいと思います。それ以前に中村淳彦がヒステリックに貧困女子を描写する多くの著作群の一冊でも読めば、杏の実情など生易しくて仕方がなくなることでしょう。(中村淳彦は一時期介護職についていて、慢性的な人手不足の職場が雇用できる人材の質の低さに絶望的な想いを抱かされたようです。その論点でも杏の介護の職場(取り分け第二の職場の方)など、中村淳彦の描く介護の現場に比べて天国のようなものではないかと思えます。)

 他にもこの映画の紹介のネタには「普段はコミカルな役をすることの多い佐藤二朗のイメージをがらりと変えた…」的なものもあります。しかし、ここ最近のことかどうか分かりませんが、私が観たコミカルな佐藤二朗は『勇者ヨシヒコ』シリーズとか映画なら『女子ーズ』や『銀魂』などがあるものの、シリアスな方も迷作映画の『はるヲうるひと』やら、テレビなら『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。』、『ブラック・リベンジ』など、テレビドラマをあまり観ない私が観た範囲でもやたらに思いつきます。全然「普段はコミカルな…」ではありません。

 どうも中途半端でどや顔の制作者のノリに周囲も話題だけ盛り上がっているような感じに思えてなりません。DVDは迷いなく不要です。