『フレディ・マーキュリー The Show Must Go On』

 封切から2週間経たない水曜日の午後5時35分の回を久しぶりのピカデリーで観てきました。ここ最近の映画感想の記事に書いていた通り、非常に観たい映画が少ない中、月の中盤、後半に至って漸く圧倒的な作品不足が解消してきたように思います。

(実際には、伊藤野枝の短い生涯を描いた『風よ あらしよ 劇場版』は2月9日からの公開でかなり観たい作品なのですが、上映館数・上映回数が少なく、おまけに尺が127分とかなり長くて、色々な面で都合が合わずにDVD発売待ちになりました。)

 このフレディ・マーキュリーのドキュメンタリー作品はたった49分の尺しかありません。結構早い段階からネット記事などには登場していたように思いますが、トレーラーを観たこともなく、(単純に毎週見ていないから漏らしている可能性も高いですが)『王様のブランチ』での紹介も見た覚えがありません。東京では23区内でたった3館の上映。都内全域に拡大しても5館でしか上映していない状況で、かなりマイナー作品扱いが露骨です。調べてみると北海道では私がよく行くファミリー層メインの小樽築港の商業施設の映画館でも、札幌市内の映画館でも上映されており、都内の扱いに較べると随分評価が高いように見えます。

 ピカデリーでは1日1回しか上映されておらず、池袋の2回、有楽町の1回と同程度ですが、これらの2館はその後も継続して上映しているのに対して、ピカデリーは私が観に行った日の翌日には上映を取りやめてしまっています。パンフレットを買うと、あまりないA5判の版型で、おまけに中の文字はベタベタのゴシック・フォントで級数も1見開き当たりタイトルと本文ほぼ各1種類、画像は点数も少なく画質も粗いという、B級映画でもあまりないような安っぽい作りで驚かされます。ページを埋めるためかと推量される極端に長い監督インタビューの内容も、生成AIでももっとマシに訳すのではないかと思えるほど、ぎこちない表現が続き、よく意味が取れない部分やインタビュアーの質問と監督の答えが嚙み合っていないように見える部分も散見されます。何にせよ、随分と低コスト感を隠すことのない作品です。

 シアターに入ると40人ぐらい観客が居ました。ピカデリーではやや小さい方のシアターですが157席ですので、観客の絶対数は必ずしも少ない訳でもないのに、かなりスカスカ感が目立ちます。間違いなくクイーンのリアルタイムのファンであったろうと思われる中高年の観客が多分7割近くいたと思われます。男女の構成比は女性が6割程度で、男女ともに年齢構成はほぼ同じです。やや男性の方が上かもしれないぐらいの微妙な相違しかありません。男性は単独客か女性と二人連れの感じでしたが、女性は単独客、男女二人連れの他に、女性同士の二人連れが何組も存在していました。確かに振り返ってみると、私の高校時代にクイーンが好きだと言っていたのは殆ど女子だったように記憶します。その状況が今に至ってこうした観客構成に反映しているということなのであろうと思いました。

 私がこの作品を観に行くことにしたのは、その存在をかなり前から知ってから、一応クイーン・ファンではあるので関心を抱き、その上で、尺が短く簡単に観られることなどで動機を強めました。ただ背景には、異常なロングランが続いた大ヒット映画(とされる)『ボヘミアン・ラプソディ』の不発感があったように思えます。フレディ・マーキュリーを軸とした物語化されたクイーンの軌跡は、どうも事実と異なる点が多く、分かりやすく、今時(と言っても公開は2018年ですが)のLGBTQウケも見越した展開になっていましたが、私が知っているクイーンの事実関係とかなり乖離があって面白さを感じることができませんでした。

 私からすると、脚色がやたらに強く不発感の大きい『ボヘミアン・ラプソディ』に対して、ドキュメンタリーなら好感が持てるかと期待したのが、この作品を観に行くことにした主要な背景理由であったように思います。結果、その期待は大きく裏切られることになりました。

 ドキュメンタリーであるにはあり、概ねフレディ・マーキュリーの誕生からクイーンの前身であるスマイルに参加する辺りから時系列の刻みが細かくなっていきます。あまり映像で観ることがなかったフレディ・マーキュリーの妹が彼の写真展に協力した話などをリアルに語っている場面などもあります。そして、短い尺の後半はAIDSとフレディ・マーキュリーがどのように向き合ったかが描写されて行きます。

 しかし、何か面白くないのです。面白くない一つの理由は彼の子供の頃の写真を提供した妹はその話題だけでほぼ登場しなくなり、それ以降の登場人物がやたらに少ないのです。多分、主要な人物は4人程度かと思われます。例えば、私が中学・高校とずっと好きだったスージー・クワトロの人生を描いたドキュメンタリー『スージーQ』や、昨年観たばかりの『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』などに比べて、情報源が限られていて非常に単調に感じられるのです。

 さらに、この主要な登場人物達が交互に登場して、まあまあ一定のテーマについて自分の考えを述べる感じになりますが、このテーマ設定が非常に不明確です。何となく曲作りについてとか、何となくグループ内の人間関係についてとか、何となく他のバンドとの比較で描くクイーンについてとか、何となくフレディ・マーキュリーの実際には繊細だった性格についてとか、各々の漠然としたテーマについて、皆がテキトーに考えを述べるだけで相乗的な妙味が全く感じられません。

 さらにあまりに親し過ぎる何人かは、たとえば「(フレディ・マーキュリーの同性の交際相手の中には有名人もいることを知っているが)それは私が言えるようなことではなく、そうしたことは一定の立場をもって語れる人間がその時が来たら語るべきだ…」的なことを勿体ぶって言っていたりします。その趣旨は分かりますが、なぜこんな「知っているけど言わない」的な意味のない台詞を編集せずに残したのかさっぱり分かりません。

 さらにこの作品はフレディ・マーキュリーの晩年の懊悩を描くために、わざわざ親切に当時のAIDS患者に対する偏見や、それ以前に患者本人達の「謎の奇病」に対する無理解などにも言及し、そんな中でも次々とセックスを貪っていたフレディ・マーキュリーが自分でも「自業自得」と受け止めていた節があると説明します。

 ドキュメンタリーだけあって、作品中には私も今まで見たことがなかったフレディ・マーキュリーの葬儀のブライアン・メイやロジャー・テイラーの様子なども見られますし、その他にもあまり他で観ることがないと思われる映像が鏤められています。しかし、前述のように、構成が行き当たりばったりで、数少ない登場人物の散漫な思い出話に振り回されて終始するように見えてならないのです。

 パンフレットの中にもクイーンについての映画作品は多く、その中にはドキュメンタリーもいくつかあると書かれています。それらの中でこの作品はどのような位置づけになるのか訝しく思えます。作り手側も映画づくりの才があまり感じられないような構成ですが、原題の『FREDDIE』に対して、なぜか晩年の一曲のタイトルまで絡めて『フレディ・マーキュリー The Show Must Go On』と邦題をつけた日本の配給側の発想も何かセンスが感じられません。

 劇中でも特に『The Show Must Go On』が特にフィーチャーされている訳でもないのです。勿論、迫りくる死を見つめながらフレディ・マーキュリーが創り上げた曲であり、その当時のクイーンのメンバーの想いが結実した曲ではあったと思いますが、クイーンの数々の曲には一定の割合で(全てのアルバムに)そうした自省の曲が含まれています。

『ボヘミアン・ラプソディ』の記事に私は以下のように書いています。

「楽器素人の私には、まあまあ認識できるブライアン・メイの独特のギター以外に、歌詞の方にもかなり特徴が感じられます。歌詞の内容では、各アルバムに1曲以上悲恋の歌があり、2曲程度は自省と逡巡を重ねたような歌があります。後者は売れても売れてもどんどん精神を病んで行ったメンバー達の想いが刻み込まれていて、自分達の過去を乗り越え続けることの困難さを聞く者に想像させます。私も心に突き刺さってくるこちらのカテゴリーの曲が好きです。その真骨頂は多分“Was it all worth it”(邦題は『素晴らしきロックン・ロール・ライフ』とかいう間の抜けたものですが、)だと思います。」

『オペラ座の夜』の最初の収録曲『デス・オン・トゥー・レッグス』はプロデューサーとの確執が生んだ曲で、曲全体で彼を罵倒する恨み骨髄の状況に既に4作目のアルバムにしてなっていることが分かります。クイーンの活動からするとまだ中盤に至る段階の7作目『ジャズ』では『レット・ミー・エンターテイン・ユー』で聞き手を楽しませるために手段を選ばない覚悟を延々と述べていて、どう聞いても辛い仕事を続けざるを得ない苦悩が滲み出ています。さらに同じアルバムのB面1曲目の『デッド・オン・タイム』は、ツアーの中で自分達が時間に追われスケジュールに忙殺されている状況を曲全体で畳み掛けるように描写しています。

 常に新しいことにチャレンジしようとしたクイーンは、自分達の過去のアルバムを乗り越えることに必死でしたし、全世界を渡り歩くライブでは『デッド・オン・タイム』そのままの状況が延々と続き、最後には名曲『ボヘミアン・ラプソディ』のオペラ部分が流れている間に、舞台裏で全員酸素吸入をしなくては続かないぐらいの疲労困憊の中でライブは続けられていたと言われています。

 その後は、ウィキにも…

「「マジック・ツアー」の成功以来、再びメンバーは、ソロ活動に専念しはじめた。この頃は、ライブ後のパーティーにて、レズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがしきりに行われ、マーキュリーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費されたという。 」

とあるように、興行は彼らにとって苦役以外の何物でもなくなってしまっていたように見えます。

 そのような状況は本作では殆ど描かれません。単に、ファルーク・バルサラというボーカリストがスマイルというグループに入った所から、彼はフレディ・マーキュリーという芸名を名乗り、バンドはクイーンと改名してブランド・イメージを揚げた話で前半の殆どを終わらせ、後半は当時の奇病AIDSに蝕まれた社会とその中のフレディ・マーキュリーを淡々と描いているように見えます。クイーンの珍しいリアル映像を集めた記録動画としての価値が辛うじてありますが、それ以上のものではないように思えます。その辛うじての価値からDVDが出るのなら一応クイーン・ファンとして保存の意義はあるかと感じます。

追記:
 私の知人の店舗経営者がブログにこの映画のタイトルに含まれている英文が座右の銘ぐらいの重みで大好きだと書いていて、そのブログ記事のタイトルも『Show Must Goes On』となっていました。「商いは飽きないで続けるから商い」という表現もある通りですから、ビジネスは常にゴーイング・コンサーンを意識した「The Show Must Go On」であるべきというのは高い理想かと思えます。
 しかし、must は助動詞ですからその後の動詞は原形でなくてはならず、その人物の人生という舞台の特定したイメージから、show には定冠詞の the が必要なはずです。
 この曲の日本語タイトルが『ショウ・マスト・ゴー・オン』なので、the の件はそのままに、せめて中学生英語レベルのミスの動詞の原形の件を一応伝えておきました。「そういう表現もあるらしいよね。けれども、俺はこう聞いている」とのことでタイトルはそのままになっています。日本語で言うと「てにをは」レベルの誤表現なので、比較的高学歴の客が多い彼の店舗の未来は暗そうに思えなくもありませんが、もしかすると彼が信奉する誰かを含めて、この誤表現に何かの意義を見出している一群の人々が存在するのかもしれません。