8月4日の封切から1週間を経ない水曜日の夜。21時40分の回をバルト9で観て来ました。流石に封切から日が経っていないので、1日3回の上映です。しかし、東京都では、バルト9ともう一館品川で上映しているだけで、上映館数が非常に限られています。(1都3県に拡大しても5館に過ぎません。それも千葉では蘇我とか、埼玉では三郷など、主要都市を避けているような分布です。)
同シリーズの前編『セフレの品格(プライド) 初恋』を観てから3日目です。終電近い終わり時間故と、台風が日本列島付近に2つある関係で不安定で蒸し暑い天気故か、客足はそれほどではありません。仕事の都合のついた水曜日の続編鑑賞となりました。その結果「水曜サービスデー」なるディスカウントで鑑賞でき、1300円となりました。前作に比べて700円割引です。
20人ぐらいの観客が居ましたが、その中に女性は4人ほどしかいなかったように見えました。年齢は20代から40代ぐらいにばらついていたように思えます。男性の方は概ね私ぐらいの年齢で、中にほんの数人、20代から30代に見える人物がいたように思います。
前編『セフレの品格(プライド) 初恋』の終わりの抄子と一樹の関係が、一樹が少々「セフレ」を踏み外し気味であるものの、まあまあ安定し始めていた所で、新たな登場人物が二人の関係を大きく揺さぶり、一旦、壊してしまいます。一樹の産婦人科に来て、中絶を無闇に要求する17歳の女性、咲(さき)です。彼女の母が彼女の父と別れてから、母は新しい男を連れ込み、その新しい男は咲を繰り返し犯し、それが母の知る所になると、母は咲を責めて、虐待はより激しくなりました。家出をした咲は、歌舞伎町のように見える街を漂流するようになり、半グレにさえ成り切れていない若い男共とセックスを重ねつつ、暮らすようになり、既に二度中絶をしています。
17歳なので、親と妊娠の相手の同意を取らなくては中絶できないと一樹が告げると、彼女は「闇医者(と言ったように思います)に行くからもういい」と出て行き、街で援交相手の会社員を引っ掛けている所で、一樹に連れ戻されます。ビルの屋上の縁に立ち、自殺さえ仄めかす咲に、一樹は致し方なく中絶手術を施し、頭部と身体が引き千切られた胎児を咲きに見せ、自分の行なったことから逃げないように迫るのでした。
ショックを受けた咲は帰る所がないので、一樹は精神的に落ち着くまで彼女を同居させ、児童相談所に引き渡すタイミングを見ることにしました。咲は本気で自分に向き合ってくれる一樹が好きになり、遊び仲間の男達にしているように恩を体で返すと一樹に何度も迫るものの、一樹に相手にされませんでした。実際に似た年齢の娘がいる抄子が母親役のような立場になって、咲は精神的にも安定してきたように見えましたが、実際には、一樹が自分のものにならないのは抄子のせいであると感じ、抄子に対して密かに敵意を募らせていました。
咲はチンピラ風の遊び仲間に、自分を抱かせてやるから、抄子を襲えと持掛けて、実際に、抄子を路上で押さえ付けて暴力を振るわせることに成功しました。と言っても、チンピラ三人が咲に言ったことに拠れば、「お前の身体だけじゃ、割に合わないので、まあ捕まえて脅すぐらいしかしなかった」とのことで、三人は別に抄子を殴る蹴るする訳でもなく、服を破るなどするでもなく、当然レイプする訳でもなく、まさに脅かして終わったのでした。咲の闇を知った一樹は、本腰を入れて咲と向き合うことにし、「いつか咲に謝らせるから」と抄子に告げ、抄子に別れを告げるのでした。
抄子は咲がチンピラ共に自分を襲わせたことを知らされていて、その結果、一樹が咲と暮らすことを選んだことに全く納得がいかないまま、一樹から「セフレ」なのだから、終わりが来たら終わりになると宣言され、泣く泣く去って行きます。そして華江から、「一樹は咲と籍を入れた」と聞かされ絶望するのでした。
前編で一樹にセフレの関係を他の誰とでも並行してセックスすることで持って良いと学んだ抄子は、彼女に執拗にモーションを掛けてくる上司とセフレとしてセックスすることで、正社員の座を勝ち取っています。しかし、一樹に比べてあまりに稚拙で独善的なセックスに抄子は幻滅し、二度と抱かれることはしなくなります。この上司は独身で、セフレとしての抄子との関係を全く理解できず、正社員になった抄子に執拗に求婚してきます。おまけに一樹との関係を調査会社に調べさせ、一樹に騙されているとの自分の価値観に基づいた判断を抄子に押し付けて来ます。
その面倒な上司に引導を渡して、そのまま同じ職場で同じ上司の下で働き続ける抄子に対して、後編では再び職場で傷心の抄子を見つめる男が現れます。ビル清掃をバイトでしているプロボクサーなりかけの23歳の猛です。一樹を失った抄子は猛の求めに応じて、セックスをしますが、またもや交際を求められます。猛は格上のボクサー相手の噛ませ役の試合に本気に臨むこととし、もし勝てたらプロポーズするとまで言いだすのでした。
23歳でも36歳の抄子にタメ口をきき、彼女を交際相手のように意識する猛のセックスは抄子をまあまあ満足させるものでしたが、そうであるが故に余計に一樹とのセックスが頭に浮かぶようになり、猛から「最中に他の誰かが頭の中にいる」と指摘されるようになります。一樹を何とか忘れ去れそうになってきた頃、咲が抄子を訪ねて来ます。
泣きながら詫び続ける咲に抄子も折れて、話を聞き、抄子は一樹がしたことを知ります。一樹は咲を完全に立ち直らせるため、咲の親に1000万円を支払って、咲に二度と近づかないようにさせ、自分の養女として咲を迎えたのでした。そして、金に困ることのない生活と教育を与え、知見を広げさせ、娘としてずっと育てて来たことが判明したのでした。
咲が18歳になった誕生日に、咲は自分がたくさん学んで得意になった料理を振る舞う食事会を開くことにし、一樹に言って、そこに抄子と猛を招くこととしました。抄子は既に咲を許していましたが、咲は食事会の場で、抄子にも一樹にも一生謝り続け、一生恩を返し続けると誓います。猛は先述の試合のチケットを抄子達に渡してその場を去ります。
結局、抄子と一樹は一年後の再度の同窓会でもう一度会い直し、もう一度ホテルに行く所から仕切り直してセフレになって後編は終わります。格上のボクサーに執念で挑み続けて負けた猛は、セフレの関係か友達の関係しか続けられないという抄子に別れを告げ、そこへ直向きな猛に惚れた咲が近づいていきます。或る意味、抄子と一樹が元鞘になることに拠ってセフレの関係を受け容れられなかった、ないしは、セフレの関係になれなかった相手がスワップされた構図です。
後編の咲の存在は非常に大きく感じます。咲が登場しなければ、前編からのセフレの物語は単調に継続しただけになったはずです。一樹とセフレのままで職場で猛から求められた場合、抄子は猛とも並行してセフレになったか否か分かりません。しかし、仮にセフレになっても、その関係に満足できない猛の方が早晩持たなくなっていたことでしょう。咲が現れ、一樹と別れて猛とのセックスを重ねたことで、「恋愛感情を持ち得た相手とデートなどをせずただセックスだけをする」のが抄子のセフレの定義であることが明確になりました。単純に言うなら、抄子は純粋な意味でセックスだけを楽しむということができないという結論でもあります。少なくとも一樹の「恋愛感情を抜きした関係としてのセフレ」と言うお題目的定義とは異なっています。抄子がその事実に自覚的になった頃、咲が人間的に大きく成長し抄子の前に現れます。結果的に自分なりのセフレ観を得た抄子のもとに一樹が戻ってきたことになります。
登場時のやさぐれた咲の様子は、単に産婦人科に訪れる問題児客と言う感じで、先般DVDで観た『ジーン・ワルツ』でも菅野美穂演じる産婦人科医が桐谷美玲演じる中絶希望女子に手を焼いています。こちらでは中絶は行なわれず、桐谷美玲の女子が生命の尊さに目覚める展開でした。そう言えば、比較的最近観た『死体の人』でも似たような展開をデリヘル嬢役の(ありとあらゆるメディアで叩かれたのではないかと思われる東出昌大の不倫相手、)唐田えりかが、やはり中絶を翻意して母になることを選択して、それと同時に「まともな人生」を歩み出しています。
それに比べ、咲はパターンが違います。中絶は単に行なわれるだけではなく、その残酷さが(スクリーンには現れませんが)本人に見せつけられます。そして、一樹の咲に向き合う覚悟を知って、咲はどんどん変わって行き、大検を受けるべく勉強を自らするようになり、料理にも励み、自分が一樹を縛っていることを自覚し、一樹の娘として一樹と抄子を再度結び付けるべく動き出すのです。
桐谷美玲や唐田えりかは、母になることを選択しても、大きく性格面では変化していませんし、そのやや残っているヤサグレ感が、母になる立ち位置とミスマッチで魅力を生むのだと思います。しかし、単にヤサグレていても「いい奴」になって終わるのです。それに対して、咲は正真正銘生まれ変わって、自分の罪を自覚して、一生を掛けて償い、一生を掛けて恩を返すと、涙ながらに語ります。その姿は胸を打ちます。咲役は髙石あかりという20歳の女優が演じていますが、DVDで観た『ベイビーわるきゅーれ』の子であると、ウィキを見て初めて理解しました。今回の役の方が数段強く印象に残ります。
この映画を前編・後編と観てみて一つ想うことがあります。それは、セックスの本来の効用が得られるような深い悦楽を齎すセックスの方法論が如何に世の中に知られていず、表層的なセックスに皆が明け暮れているかということです。特にこの作品の主人公達は、結局彼らなりのルール定義によるセフレの関係で居続けることを選びます。つまり、二人がともに分かち合うものはセックスの悦びだけです。ならばなぜその悦びをより掘り下げようとしないのかが、私には疑問であるのです。
性の求道者である代々木忠監督の『ザ・面接』シリーズなどを見ると、奥深いセックスの恍惚がどのようなものか分かります。それを実現する方法は、身体の相性が良いなどという陳腐な要素や、前戯だの愛撫だの体位だののテクニックなどの幼稚な要素や、ペニスの長さや太さとか、女性器の感度といった、馬鹿げた要素にはほぼ全く左右されません。それは、嘗て中国人が房中術としてまとめたセックスや、南太平洋の人々が行なっていたポリネシアン・セックスや、五木寛之がスロー・セックスやサイレント・ラブと呼んだセックスに共通するセックスの方法論によってのみ実現します。
その恍惚は深い瞑想などと同じ心の安寧を齎すので、それが起きると、その充足感は絶大で、相手が他の誰とセックスをするようなことがあっても、特に心が乱れることがありません。特に女性の方は、相手の男性と溶け合い境界がなく、それが周囲の空間にまで同一化した感覚を味わうことになります。まるで『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完状態です。なので、抄子のように、セフレと自分に言い聞かせても、一樹の言動に心乱れるようなことなどないでしょう。
おまけに私が知っているアラサー女性は、それを何度も体験していますが、彼女に拠れば、行為の最中、相手に対して「瞬間恋愛」とでもいうような、相手を愛おしく大切に思う気持ちが生じるので、原理的には誰としても、同様の結果が生まれるとのことです。(現実に代々木忠監督作品では、AV男優のみならず、ほぼ素人の男性と、心に傷を持つ女性がセックスをしても、(代々木忠監督が支持する方法論に従った結果)女性が心底解放されるヒプノセラピー的な大きな効果が生まれています。)ならば、抄子も一樹にこだわる必要もないですし、気持ちだけでみたら相思相愛だった猛に、20代前半の勢いとAV的体位で頑張りまくるセックスとは異なる、究極のセックス法を教え、共に深い悦楽に毎回浸ればよいだけだったのではないかと思えます。
このようなセックスの本来の姿は、洞窟の中で集団で暮らしていた頃の太古の人類の生殖のありかたの中で最適化されています。そこには一夫一妻制もありませんし、当然不倫もなければ、セフレもいません。敢えて言うのなら、洞窟の中にいる生殖可能な個体はみんなセフレです。
男性が何度もピストン運動をするのも、先行してセックスしたオスの精子を相手のメスの膣から掻き出すためですし、快感を得始めるとメスが声を出すのは、発情した自分に他のオスを呼び寄せるためです。絶頂に達すると痙攣が起きるのは、膣に出された精液を至急校が収縮して中に取り込むように動くためですし、絶頂後に女性が完全に脱力してしまうのは、立ち上がって膣の精液が流れ出るのを防ぐためです。この延長線上に、究極の快感を齎すセックスの方式があります。
抄子を演じた行平あい佳という女優はウィキに拠れば早稲田大学を卒業後、フリーの助監督として働いた後に、女優にもなったようです。助監督ではどのような作品を手掛けたのか知りませんが、せめて恍惚に浸ることができるセックスがどのようなものか理解してから、自分でそれを再現して欲しかったように思えてなりません。
前編に比べて、観客層が大きく異なっていましたが、封切から日が浅いことから考えると、高齢の男性達が封切から早い段階で大挙(というほどでもないかもしれませんが)押し寄せて熱心に観る作品のようです。彼らはなぜこの作品を観たいと思ったのでしょうか。原作コミックの大ファンといった風にも思えません。
AV制作会社のクライアントが居た頃、そこには高齢者が電話で通販の注文をよくして来ていました。それが単純なセックスのありようでも、物語に沿ったセックスのありようでも、ありとあらゆるバリエーションが、日本の偉大な文化であり、輸出産業でもあるAVの世界には間違いなく存在します。買うこともできますし、レンタルすることもできますし、DLすることもできれば、ビデオ鑑賞部屋で観ることもできます。勿論、動画をネットでタダで見放題というのも簡単にできます。そんな中で、これらの高齢男性達は何を求めてこの作品を劇場で観ようとしていたのかが、分かりかねました。
前編から後編を通して振り返る時、描かれるセックスは陳腐で、エロスが殆ど感じられず、おまけに幼稚でしたが、セックスのありかたを考える題材として、この監督の他作品のように多様な切り口を提供してくれる作品だと思います。また、特に後編の咲の姿は、本来のこの作品の押しとは離れていますが、多くのヤサグレ妊婦の物語とは一線を画した輝きがあります。DVDはギリギリ買いと言う感じかと思います。
☆映画『セフレの品格(プライド) 決意』