『世の中にたえて桜のなかりせば』

 4月1日、エイプリル・フールの封切から一週間経った金曜日。池袋西口の古く小さな映画館で観て来ました。1日3回上映していて、その最初の回で、10時35分からでした。マイナーな映画です。23区内では銀座でもう1館が上映しているだけです。JR池袋駅から地下道を歩き、エレベータで地上に出て、映画館に到着したのは、上映20分ほど前でした。

 シアターに入ると、私以外に観客は8人しかいませんでした。全員男性で最も若そうな感じの客が30代後半のように見えました。中心層は40代後半から50代ぐらいに見えます。これらの人々が何でこの映画を知って、何故観たいと思ったのか、全く分かりません。スーツ姿の男性も3人ほどいましたので、いわば、その界隈での座ってできる暇つぶしの方法と言うことなのかもしれません。

 この映画は、私が全く顔も名前も知らない乃木坂46の子が主演をしていて、不登校の高校生の役です。不登校になって何をしているかというと、終活アドバイザー業のフランチャイズ店舗のスタッフです。相談に来る人の話をうんうんと聞いているだけで仕事になり、あとはマニュアルに従って、たとえば司法書士や遺品整理業者などを紹介する仕組みになっているようです。バリバリ忙しく働かなくて良いということが魅力でこの職に就いたと彼女は言っています。

 終活そのものの話であれば、観る者の心を鷲掴みにする弩級の名作『エンディングノート』を質的に超えるのは至難の業です。そして、もちろんこの作品も、終活そのものの物語ではありません。そのフランチャイズ店を訪れる死を見つめる人々との邂逅を経て、主人公の少女が人生の意義を考えていく物語です。それを言うと、今度は『おくりびと』の方が名作かと思われます。しかし、ここでも、微妙にニッチな棲み分けが為されていて、この作品には死者が出て来ません。あくまでも終活段階の人々がお客ですから、主人公が現実の死に直面することが無いのです。

 それでも、印象的な客が何人も出てきます。取り分け、死ぬ予定もなければ、死ぬ気でもないのに、仕事で遺書を書かねばならなくなって、書けなくて悩んでいる男性が登場します。後にこの男性は宇宙飛行士であることをテレビのニュースで主人公は知ります。街中に暗渠を張り巡らす土木工事をしていた男性もいます。病で死期を悟った彼は、主人公に川の写真を撮影して欲しいと頼むのです。頼まれて出向いた先の場所はどこも、普通の路面があるだけの場所で、川は全くありません。主人公が訝っていると、それらの場所は総て、暗渠が地下にある場所で、元々の川だったのをその土木工事担当者が暗渠に変え、そこに道路や生活空間を作ることで人々の暮らしの場所を作ったことが分かるのです。

 実は、そのような来店客と並んで、最愛の妻にジワジワと迫り来る死と向き合っている人物がいます。その老男性は満州からの引揚者で、日本に戻っても学校にも居場所がなく人生に迷いかけていたところで、その妻に巡り会ったと言います。その学校の裏山の大きな桜の木の下が、彼らの美しい記憶である馴れ初めの場所です。その妻を見つつ、死について考えるため、司法書士の老男性は終活アドバイザーの仕事に就くのです。つまり、この男性は主人公のJKのやたらに年の離れた唯一の同僚で、殆ど客の来ない事務所でぽつんと二人で過ごす相手なのです。

 この九死に一生を得るような体験をして日本に辿り着いたにもかかわらず、その人生を無為に過ごすことになりかけた老人の中に堆積した、長い人生の時間の中の輝きに主人公のJKは惹き付けられていきます。そして、サプライズとして、老夫婦には明かさず、今となっては場所も明確に分からない桜を探しに旅立ちます。苦労の末に見つけた桜は、老木過ぎて既に花が咲かなくなっていました。その木を多数の写真に収め、CGを使って桜の花が咲いたように加工し、老夫婦に視聴覚室のような壁一面のスクリーンのある部屋で、桜吹雪を再現して見せるのでした。喜びに震えた妻は、その後一年を待たずに逝去したのでした。

 この老司法書士を宝田明が快演しています。彼は役者としてこの映画に参加しているだけではなく、この映画の企画に携わり、エグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされています。つまり、端的に言ってしまえば、彼が創り彼が演じた映画であるのです。宝田明本人も満州でソ連兵に腹を撃たれた経験があるとパンフに書かれています。ソ連兵に腹を撃たれた(※)彼が、ソ連がウクライナ侵攻を続ける春に、限られた時間の中にあるからこそ輝きを増す人生の意義を桜を通じて問いかけたのがこの作品であるとパンフには書かれています。

 そして、パンフの制作段階では間に合いませんでしたが、この作品は彼の遺作になった作品でもあります。彼は3月10日に行なわれた封切前の舞台挨拶に病状が悪化し車椅子で登場したとウィキに書かれています。そして14日に逝去しました。私が比較的最近観た映画の中で、やはり彼の好演が記憶に残っているのは往年の有名催眠術師を彼が演じた『ダンスウィズミー』です。2019年の『ダンスウィズミー』制作段階でも、既に彼は入退院を重ねていたようです。そして、『ダンスウィズミー』の次の作品が遺作となった本作です。映画作品で私は宝田明の大ファンと言う訳でもなく、明確に彼を思い出すことができるのは、記念すべき第一作であるオリジナルの『ゴジラ』を含む『ゴジラ』シリーズ数本と『ダンスウィズミー』だけです。それでも、彼の訃報を山手線の電車の中のモニタで観た際に、なぜか彼の遺作を観に行こうと思えたのでした。読み返してみると、このブログの『ダンスウィズミー』の感想の中に宝田明個人への言及はほぼありませんが、それでも、何か無意識の中に強い印象を残されていたのだと思います。流石は催眠術師(役)です。

 もう一つ、私がこの作品を観たいと思った理由があります。桜を多面的にモチーフとして採用していることです。元々前述の通り、宝田明が「桜を題材にした映画を撮りたい」と思い立ったことからこの映画のコンセプトが形作られたとパンフにあります。宝田明が育った満州には桜がなく、日本人の桜への特別な想いを実物を見ることが無いが故に、憧れのような位置づけで、桜を意識していたということのようです。

 冒頭と終劇直前に同じ詩が主人公によって読まれています。茨木のり子の『さくら』という詩で、以下のような内容です。

「ひとは生涯に、何回ぐらいさくらをみるのかしら
 ものごころつくのが十歳ぐらいなら、どんなに多くても七十回ぐらい
 三十回、四十回のひともざら なんという少なさだろう」

 名文ですが、この詩はこのパートの後にこそ恐ろしいほど研ぎ澄まされた感性が埋め込まれています。劇の終盤でも女性国語教師二人のセリフの中に上の部分の続きが登場していますが、全文は以下の通りです。

「ことしも生きて
 さくらを見ています
 ひとは生涯に
 何回ぐらいさくらをみるのかしら
 ものごころつくのが十歳ぐらいなら
 どんなに多くても七十回ぐらい
 三十回 四十回のひともざら
 なんという少なさだろう
 もっともっと多く見るような気がするのは
 祖先の視覚も
 まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
 あでやかとも妖しとも不気味とも
 捉えかねる花のいろ
 さくらふぶきの下を ふららと歩けば
 一瞬
 名僧のごとくにわかるのです
 死こそ常態
 生はいとしき蜃気楼と」

 東京の世田谷区の商店街の桜並木の近くに住んでいた時代から既に20年以上が経過していますが、私は今でもその地の桜を春に見に行くことにしています。毎年、私もその桜の木々を見上げながら、「あと20回はないな」などと思いつつ、「また来たよ」などと桜に話しかけ、そして、勝手に桜の立場になって私を見下ろし、毎度訪れるこの人間の矮小ですぐに老いて死んでいく様子を眺めている気分になってみたりもします。成虫となってからほんの数日で死ぬことになっていることが知られる多くの種類の昆虫がいます。桜の木々から見たら、人間もそのようなものに見えるのだろうと思えてなりません。(ソメイヨシノは実はすべての木々が1本の原木のクローンであることが知られています。だとすると、ソメイヨシノから見た人間は矮小で短命で統一のとれていない猥雑な生物かもしれません。)ですから私はこの映画のテーマとなっている桜を観る人々の命の重みにとても共感できます。

 それは寧ろ、死と隣り合わせの引揚げを生き抜いた宝田明の人生観に対して、生まれてから20年ぐらいは病気とケガで常に生きているのが不思議と言われ、さらにその後は、飛行機事故や海外での命にかかわるようなトラブルの連続など、別の観点から生きているのが不思議と言われ続けてきた私が共感できる部分でもあるのだと思います。

 また、桜に対して心騒ぐ人々の心も、この映画は文学によってモチーフに取り込んでいます。タイトルの『世の中にたえて桜のなかりせば』がまさにそれです。この歌は「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」という『古今和歌集』にある在原業平の作品です。この歌の心騒ぐ様子は咲くか咲かないかというタイミングを巡るものだと思いますが、私は1本の桜の存亡を巡って心騒いだ経験があります。

 私が毎月二回出しているメールマガジン『経営コラム SOLID AS FAITH』の第65話『桜の記憶』の冒頭の文章は以下のようになっています。

「誕生した娘に妻の希望で「さな」と名づけることとした。「桜七」と書く。

結婚以来住んでいた街の駅が拡張されることとなり、春にはいつも満開に花
を咲かせていた駅舎脇の桜が、「老木で移植に耐えない」との理由で切り倒さ
れることとなった。植物が好きな妻は、その年の誕生日に向かい、陰鬱な日々
を送っていた。知り合いの伝を辿って、植木屋に聞くと、接木や挿し木でも桜
はつきが悪いらしい。「桜切る馬鹿」とは真実らしく、「挿し木なら、玄人が
やっても、1割も持たない」とさえ言われた。妻と違い、自然だの植物だのに
は全く興味がない私が、桜の本を買い、盗み取ったその桜の枝から、挿し木で
増やす研究をした。

低い確率は母集団のサイズで補う他ない。100近くも作った枝の切片の殆ど
は、数日間で死に絶え、ただの木枝と化した。成長の観察記録は、落胆の記録
になった。辛うじて生き残った十本に満たないマッチ棒のような桜が妻へのそ
の年の誕生日のプレゼントとなった。」

 生き残った桜は7本あって、それが娘の名前の由来になっています。そして、その7本のうち5本は移動した場所の気候が合わず死に絶えました。残った2本のうち1本は岐阜の山中に植えられたと聞いています。そしてもう1本はご縁のあった川崎市にある神社の入口に植樹され、毎年、美しく花を咲かせています。娘もその桜を自分に縁ある桜として認識しており、機会があるときに訪ねています。

 先述の通り、すべてのソメイヨシノは1本の木のクローンですから、駅の脇にあった1本の老木の子供達を作ることに遺伝子的な意義は全くありません。それでも、その木が死なずに存在していること、もしくは、その木が死なずに存在するようにできたこと、それらに今尚心騒ぐ自分がいます。

 ですから、想い出の木を探しに旅に出る主人公の貫くような想いも、私には理解できる気がしますし、枯れかけて花を咲かさなくなったその木に、何とか花を咲かせたいという(結果的にCGを用いたARに結実しますが)主人公の気持ちもよく分かるつもりでいます。

 この映画はそのような桜に投影される人々の人生の意義と、桜に心騒がし、心躍らせる人々の気持ちを丹念に描いています。何か強いメッセージが打ち出される訳ではありませんし、妙にキャラの濃い登場人物もいなければ、物語に大どんでん返しがある訳でもありません。一般評価のほどは置いておき、死の影さえ入り混じった幽玄な桜の美しさに魅入られる日本文化の一端を実感できている者の一人として、私はこの作品が非常に好ましく思えます。DVDは勿論買いです。

※宝田明のソ連・ロシアに対する嫌悪は甚だしいものだったようで、ウィキには以下のような文章があります。
(終戦直後の引上げ船が満載の引上げ者を載せて港が見える所まで来て、ソ連潜水艦によって沈められた事件がありますが、その港は私が育った街です。北海道全道の幹線道路沿いのよくある「呼び返そう父祖の築いた北方領土」の看板を私も見て育ちました。その私にはかなり共感できる内容の文章です。)
「満州時代には、ソ連軍の満州侵攻による混乱の際、ソ連兵に右腹を撃たれる。元軍医に弾丸を摘出してもらったが、その弾丸はハーグ陸戦条約で禁止されていたダムダム弾だったという(ソ連は条約を否認していた)。その経験に加え、満鉄の社宅にいた女性がソ連兵に強姦される現場を目撃した経験などがトラウマになり、現在もロシアには嫌悪感を抱いている。実際に、ロシア映画やロシアバレエは「吐き気を催すほど許せない気持ちが湧き起こる」ために観たくないと語っている。」
 一方で国に対する感情がいかほどかは置いておき、中国語には非常に堪能で、今回の作品でもその才の一端が披露されています。