東京では1ヶ所しか上映していないのですが、それがアップリンク吉祥寺です。パワハラだかモラハラだかの事件はどのようになったのか分かりませんが、取り急ぎ、渋谷だけが無くなって、吉祥寺は健在ということのようです。
健在なのは非常に使いづらい券売機も一緒で、今尚、クレジットカードを支払いに使えない変わった券売機を使うようにとスタッフに言われます。
6月下旬の封切で二週間が過ぎた木曜日の晩、1日1回しかない午後6時10分からの回を観て来ました。明瞭な発音に聞こえないアナウンスを頼りにシアターに入ると、何かエンドロールのようなものが延々とスクリーンで繰り広げられていて、間違ったシアターに入ってしまって終わりかけの映画を観てしまっているのかと思いましたが、シアター内が明るいのでそうでもないのかと思い直し、一応入口の上映作品の掲示を確認してから、席に着きました。
エンドロールのようなものは、何か寄付なのかクラウドファンディング的なものなのか、よく分かりませんが、この映画館の運営に貢献した人々の名前を延々と見せていたもののようでした。
小さいシアターはかなりの混み様で、老若男女60人ぐらいがいたように思います。僅かに男性が多かったように思いますが、年齢には偏りが大きく、男性は私ぐらいの年齢に偏っている一方で、女性は20代から30代ぐらいにかなり偏っていたような気がします。単独客が多いのも特徴で、男性客の二人連れぐらいはいたように思いますが、男女のカップルは殆どいなかったように思います。
私は身体にせよ精神にせよ障害のある人々を題材にした映画作品を時々観ます。今回の選択もその範疇の関心によるものです。なぜこの手の映画を時々選ぶのかと言えば、多分、自分が普段想像していないような視点などを得られやすいということと、切り口は少々異なりますがLGBTQなどについて最近よく聞く差別や生き辛さのようなものについて考える材料になるような気がするからです。後者は多分、LGBTQの人々に限らず、何かの生き辛さを抱えている人々になら共通の事柄であるかもしれません。
たとえば、現実に日本で行なわれている障害者プロレスの興行の様子を描いたドキュメンタリー映画の『DOGLEGS』や、フィクションではあるものの重度身体障害者が健常者と対等の力を誇示しようとして殺人にのめり込んで行く『おそいひと』などがそれです。他にも、ヘレン・ハントが障害者にセックス・セラピーを施すセックス・サロゲートを演じる『セッションズ』も名作だと思っています。
タイトルにも名前が入っている池田氏は、軟骨四肢無形成症という先天的な病を患っています。所謂「コビト症」で、身長は112センチしかありません。頭部は健常者と同じサイズで、首から股にかけての長さもやや短いようですが、ほぼ健常者同様に見えます。四肢は非常に短く、日常の行動に常に不便が付き纏い、路上の移動なども歩かずにキックボードを用いています。中央大学卒業、相模原市役所の職員でした。モザイクがかかっていますが、ペニスも健常者とほぼ同様のようで、セックスも問題なくできます。
その彼が40歳の誕生日を目前にスキルス性胃癌のステージ4と診断されます。「今までやれなかったことをやろう」と二つのことを始めます。一つはセックスをたくさんすることで、もう一つは自分の残された時間の記録を取るという関心がきっかけにあるのだと思われますが、カメラによる撮影記録をつけることです。
この二つがクロスすると、デリヘル嬢とのハメ撮り撮影シリーズとなって、劇中にも膨大な量のハメ撮り動画が登場します。一応、デリヘル嬢は建前上セックスをしないことになっていますが、「もうすぐ死ぬ人間のお願い」と言うことで理解を得たのか、発癌の保険金を大量につぎ込んだせいか、挿入に同意するデリヘル嬢は多かったようで、数日に一回以上のペースと思われるほどに、ラブホテルに通ってはデリヘル嬢との時間を過ごしています。死ぬ間際には衰弱して、「立たないどころか、そんな気さえ湧き上がって来ない」と嘆き、他界しますが、40歳直前から約2年間の余生の多くをデリヘル嬢達との時間に費やしているのです。
この作品は非常に変わった制作の経緯と作品構成を持っています。経緯の方は、池田氏が以前から知り合いで、『新参者』シリーズや『相棒』シリーズの脚本なども手掛けている業界人の真野氏に撮影などの協力を求めて、デリヘル嬢とのセックス以外の多くの場面の撮影を担当してもらっています。池田氏は自分の死後に作品化するように真野氏に依頼して膨大な動画記録を残します。真野氏は本作品と同テーマを扱っている作品である『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』を生前の池田氏と観たことをきっかけに、その監督である佐々木氏に池田氏の膨大な動画記録を丸ごと投げる形で編集を依頼したのでした。
上映が終わると、スタッフがやにわにシアターに入り込んできて「そのまま席でお待ちください」と言うので、まるで飛行機の搭乗や降機の際のように、「密」を避けるための配慮かと思ったら、全く違いました。「トークショーが始まるので、スピーカーの人々用の密防止のアクリル板を設置する間待っていろ」と言う意味でした。こうして、何が何やら分からないうちに、場の雰囲気に拘束されるように無理矢理トークショーを聞かされることとなりました。そのトークショーには、真野氏・佐々木氏、そして、パンフレットに非常に優れたまとめを書いてくれたとされる帯谷友理と言う人物が現れ、ダラダラと自画自賛のような身内ウケの話やらを展開していました。パンフレットでも明確にはなっていない、編集作業の丸投げ感も私はこのトークショーで知りました。
中途半端で何かわざとらしく、自己満足のための変な技巧を凝らしただけの作品に私には思えて、トークショーの話の内容を聞けば聞くほど嫌気がさしてきました。
何が特に違和感を湧かせるかと言うと、彼らがこの作品を「虚実皮膜」と言う言葉で執拗に語り、執拗に我田引水的に相互に褒めちぎることです。ネットのそれらしきページの解説を読むと、わざわざ英訳までつけてくれて…
「「虚実皮膜」とは
・近松門左衛門の芸術論
・芸術とは虚構と現実の微妙な接点に成り立つもの
であることがわかりましたね。
芸術と一口に言っても、様々な形や手法があります。しかしいずれにおいても、何かを生み出す・表現するという点において作者の思惑や意図が入り込むことは必至でしょう。100%現実と同じではなく、どこかに作られた要素・虚構が混ざっているのです。
Art abides in a realm that is neither truth nor fiction. は、「芸術とは事実でも虚構でもない場所にとどまるものである」ことを意味します。動詞 abide は「とどまる」、名詞 realm は「領域・分野・範囲」のことです。どちらにも属さない・その虚実の間にあるもの、と読み取ることができますね。」
などと書かれています。このようなことがこの作品で本当に成功裡に表現されているのか私は疑っています。
この作品は、三つの要素がぐちゃぐちゃに絡み合っています。(1)デリヘル嬢とのエロ記録動画、(2)劇中ではサトミちゃんと呼ばれている毛利悟巳という劇団員との恋愛ドラマ、(3)末期癌の闘病動画記録、の三つです。
特に、この(2)の意味が作品を観ているだけではよく分かりません。劇中の真野氏と池田氏の会話をよく聞いていると何か設定があるということは理解できますし、普通に考えて、本気の室内デートで池田氏とサトミちゃんが二人で鍋をつつく状態を完全にノンフィクションで隠し撮りもせずに撮ることは不自然だと分かります。
これは、「風俗嬢ではやることは幾らでもやれるが恋愛の感じがない。以前一緒にいた子とも、確かに同棲していたので、恋愛はしていたのだろうが、キャバクラから家に転がり込んできただけだったので生活感がただあるだけで、恋愛の感じがない。だからそういうのを体験したい」という池田氏の希望から、真野氏が「じゃあ、そういうのをフィクションで撮ろう」と言う話になって成立したドラマのようなのです。サトミちゃんの分だけは真野氏が台本を用意して、それに対する素の池田氏の反応を映像化するという狙いだったと語られています。
自宅の台所で持参したエプロンまでしてサトミちゃんが用意した鍋をつつき、二人でソファに並んで映画を観て、途中でサトミちゃんが映画を止めるように求めて「話をしましょう」と言い出します。映画を観るモニタの辺りにカメラがあって、ソファに並んだ二人をずっとフレームに捉えたままです。サトミちゃんが「付き合ってください」とハニカミながら言います。
私は、この段に至って、まあまあ「これは創作ドラマだ」と分かりつつあったので、池田氏は、これまた台本通りで、「はい喜んで。もうすぐ死んじゃうのは分かったうえでの話だと思うから、とても嬉しい」などと言いながらサトミちゃんに抱き着いて、キスでもし、その後、デリヘル嬢達との躊躇ない愛撫同様の行為やらその先に至るのかと思っていました。
(その時点で、サトミちゃんが「雇われ」と言うこととは一応想像していましたが、AV女優のような人々も世の中にはいますし、セックス・サロゲートのようなボランティアも存在する訳ですから、行く所まで行く映像も、その前後に大量に配されたデリヘル嬢との記録動画との均衡感からアリなのかなと思っていました。)
池田氏と真野氏の元々の想定の展開は、サトミちゃんの申し出を池田氏が受け入れ、手を握るぐらいでニコニコしてサトミちゃんを送り出す…と言った、今時、少年漫画でもなかなかないようなものであったようです。しかし、障害があり死にゆく自分との交際の申し出を、場に飲み込まれて真面目に受け止めた池田氏は拒んでしまうのでした。
真野氏・佐々木氏の辺りは、フィクションをフィクションとして進めることができなくなってしまった池田氏のこのような状態はフィクションの中の現実で、このようなことが「虚実皮膜」を実現している…としているようです。全く理解できません。
池田氏はデリヘル嬢との生々しい会話や行為の中で、そしてその記録動画を見返す中で、自分のセックス感も語っていますが、そんな時でさえ、真野氏がカメラを向けると、「何か演技のようなことをしなきゃという気持ちになる。スイッチが入る」と言っています。つまり、カメラを向けた結果撮ることができた映像は、皆、虚実皮膜です。サトミちゃんはかなり色々な舞台に立った経験があるとパンフには書かれていて、演技はやたらに自然ですが、池田氏はただの素人です。なぜこのような訳の分からない学芸会の寸劇のような要素を組み込まねばならなかったのか全く理解できません。
パンフを読むと分かりますが、池田氏は障害者向けの婚活パーティーにも参加し、積極的に婚活を進めようとして、遺産の渡し相手を探していたと書かれています。理由はパンフで明確にされていませんが、その婚活は頓挫したとされています。その上、ハプニングバーにもデビューをしたようです。
パンフには、劇中には現れていない、さらに謎なことがサラッと書かれています。
「池田には「一番好きな人」がいた。池田によると、男女の関係はないが特別なつながりのようなものを感じているようだ。事情があり(おそらく結婚している)映画への出演は断られたので、僕は会えずじまいだった。(中略)葬儀の後、池田のお姉さんに聞いたところ、彼女と思われる女性が病室を訪れ、長い時間、池田と抱擁していたという。」
さらに別の女性もいます。先述のキャバクラ系の女性です。
「そんな中、池田が「ネコ」と呼ぶ女性と同棲を始めた。彼女はキャバクラで働いているが、事情があって住居を失った。池田としては同棲すれば家事をやってもらえる。そしてセックスできるかもという打算もあった。が部屋は散らかり、何もさせてもらえない。」
虚実皮膜を謳うこの作品の中には、これらの女性の痕跡さえ殆どありません。おまけに、家に来たサトミちゃんが池田氏が真ん中にいる集合写真を見つけています。それは元職場の人々が「池田さんを応援します」と書いた紙を持って集まった写真でした。サトミちゃんが、「皆優しい」と評すると、池田氏は「何を応援するっていうんだか…」と彼らの善意を拒む態度を示します。しかし、(私の理解が正しければ)病状がまだ悪化する前の段階で、池田氏はその写真の中の数人の女性と自宅らしきところで歓談していて、まんざらでもない様子でニコニコ語らっていたりします。
性愛の伝道者たる伝説のAV監督代々木忠によれば、セックスにおいて、その場その場の相手に対して相互に心と体を明け渡すことで、生物としての最高の至福を得られる時間が実現します。長く評価が高い状態で売れっ子であり続けるAV女優の多くは、男優とのセックスのたびに、その男優とその後駆け落ちしたいぐらいに好きになることを繰り返していると言います。ならば、池田氏も発癌の保険金やら死亡後の保険金の前借やらを総動員して、デリヘル嬢でもソープ嬢でも囲い込んで、延々と至福の時を過ごせばよかったのではないかと思えます。
また、それでは本来自分が恋愛をしたかった相手への気持ちが昇華されないままだというのなら、「一番好きな人」でも「ネコ」でもサトミちゃんでも、元同僚である応援者の女性達でも、どこかに閉じ込めて説得し、死者への餞として性体験に付き合ってもらうなりすればよかったのではないかと思えます。レイプとの瀬戸際の行為になりますが、死で全てが奪われる前に、果たせなかった想いを遂げようとすること自体は、責められるものではありませんし、仮にそれで裁判を経て有罪となろうとも、どうせ死ぬのですから、悔いはないと思えるのではないかとさえ思えるのです。
(だからといって、問答無用でどんどん犯して回ったら、『おそいひと』の刺殺魔とあまり変わらなくなってしまいますから、『101回目のプロポーズ』ばりのストーカーまがいの情熱が必要なのかもしれませんが…。)
そのような想いとどう向き合い、どう発露させるかが、『DOGLEGS』や『おそいひと』や『セッションズ』のメインテーマとなっています。逆に言えば、それをデリヘル嬢との至福で満たすというのなら、新たな形ですが、本人がそれでは満たされないと、劇中で本音を語っています。そこに向き合ってこそ、本来の池田氏を描けたのではないかと思えます。そして、それでも尚、すべてのノンフィクションの宿命として先述のように虚実皮膜から逃れ得ないことでしょう。
そこから目を逸らし、素人演芸レベルのおかしな創作劇の挿入でお茶を濁し、それを「虚実皮膜」だと言い募る、馬鹿げた作品であるように私には思えました。DVDは勿論不要です。
追記:
トークショーに見入る観客の様子から、リピーターが多いように感じられました。なぜこんな作品を何度も観たくなるのかが私には全く分かりません。
追記2:
トークショーの中で佐々木氏は、以前トークショーの後のロビーで、観客の一人から話しかけられて、「もっと池田氏のセックスのシーンばっかり出てくるのかと思っていた。なぜ膨大にあるセックス動画をもっと使わないのか」とクレームを言われたという話で、そのクレームの主は若い女性で、同じような感想や意見、クレームは特に若い女性から多いということでした。
やはりこの作品は池田氏が発病前には果たし得なかった一般女性とのナンパ師的性遍歴への挑戦と実現を描いた作品にした方が良かったのではないかと思えてなりません。その結果で代々木忠監督の名著『つながる』にあるような哲学的な発見に至ったら最高だと思います。