馬鹿げた通称「武漢ウイルス」の空騒ぎのせいで延びに延びて7月23日になった封切から既に1ヶ月以上を経て、漸く観客動員が収まってきた頃を見計らって観に行ってきました。9月9日水曜日夜6時40分からのバルト9の回です。封切からこれだけ時間が経っていても、新宿では3館で上映されていて、バルト9以外の館ではまだまだ上映回数が多い状態です。しかし、観客動員に敏いバルト9では1日2回になっていました。(1日1回ぐらいになった大型作品が午前中の早い時間にぽつんと上映されている状態になることが多いのに対して)その2回も夕方以降の時間枠に2回になっており、そこにも何らかの読みが感じられます。
『コンフィデンスマンJP』シリーズがとても好きかと言われると、それほどのファンでもありません。それでも、TVシリーズをまずDVDで観て、劇場上映作第一弾を観て、さらに『運勢編』とか言うTVスペシャル版も観ました。面白いとは思いますし、面白さを確立する道具立てとなっている典型的な展開パターンも、まるで『水戸黄門』ファンがどれだけ繰り返してワンパターンな『水戸黄門』のドラマを見ても飽きが来ないように、飽きが来ない程度にはぎりぎり観られるぐらいの気分ではいます。後から観た話を振り返ると、設定自体に無理を感じたりすることは時々ありますし、何度も見返して楽しめるほどの面白さはありません。もう少々長澤まさみファンの度合いが強ければ、さまざまに変装する長澤まさみの画像クリップ集を作るなどの取り組みに打って出てしまいそうな気がします。
この作品をこのタイミングで観に行こうと決めたのは、混雑度合いが落ち着くのを待ちつつ、観たい作品が少ないので毎月の映画鑑賞ノルマ達成のために鑑賞を延ばしていました。観たいと思えた幾つかの理由は、前述の通り、『コンフィデンスマンJP』のコンプリート感を抱くためである点が大きいと思います。もう一点は、前述の通り、長澤まさみの色々な顔を一本の映画の中でたのしむことが目的です。特に今回は、本作の中だけではなく、先日観た『MOTHER』の“死んだ目”をした路上生活者の長澤まさみが比較対象にあるので、さらに味わいがあるものと想像しました。
シアターに入ると、ざっくり数えて80人ぐらい観客がいました。60人以上が女性で半数以上が20代であったように見えました。残った少数の男性のほとんどは女生徒のカップル客の片方です。後の男性は殆ど単独客で、年齢は結構高い層まで広く分布していました。見た限り、男性の二人連れは一組のみでした。私がここ最近の中で観に行った映画の混雑状況で見ると、かなり混雑度合いが高いほうです。さらに、これほどの女性客比率、それも若い女性客比率というのは、あまり前例がありません。
アラサー女性の弟子にこの観客動員状況の話をすると、先日“自殺”したとされている三浦春馬の残り少なくなった出演作品を劇場で観ようとしている女性客がそのように集結しているのであろうという話でした。私にとって、三浦春馬は映画作品でも時々目にしているはずですが、全然記憶に明確に残っていない男優です。それほど演技がうまくて役に馴染みこんでいるということなのかもしれませんが、ウィキで出演作の一覧を見て、自分の見た作品の中の彼の役柄を見ても、どうもきちんと思い出せないケースばかりでした。
ただ、その彼のファンであるであろう女子達の目的意識はかなり強いようで、何度も同じ映画を見返しているリピーターの存在は上映終了後に通路で聞こえてきた会話内容から窺えました。
三浦春馬は『コンフィデンスマンJP』の劇場公開作第一弾から登場しました。その際には準主役級で、主人公ダー子と多分本当に肉体関係もあるであろう過去の詐欺パートナーの男性です。その存在なしには話が全く成立しない役柄でした。劇場公開作は第一弾の頃から、TVシリーズで登場したさまざまな人物がチョイ役も含めたくさん動員されています。その特徴は今回の第二弾でも同様で、劇場第一弾と第二弾の間に制作されているTVスペシャルに登場した広末涼子まできっちりそれなりの役を与えられています。第一弾で大活躍した竹内結子もよりキャラクター設定が深まる形で登場します。
三浦春馬も同様で、当然第一弾より存在感はなくなりましたが、それ相応の見せ場が存在します。何をどう悩んでいたのか分かりませんが、このような将来に続く役柄を得ているケースは(私はよく知りませんが)他にもあったであろう三浦春馬の自殺は、何やらマスコミ的に、それなりに辻褄合わせがまあまあ為される方向にあったように見えますが、つい最近の芦名星の死亡などから、どうも芸能人の不審死と言うべき死亡事件が相次いでいるように思えてなりません。ここ数年の薬物系の芸能人の検挙事例の増加などを見ると、どうも不審死の連続も何らかの大きな隠蔽工作の流れの一環のように考えられるという説に私は一定の信憑性を感じています。
この映画に関わるもう一つの大きなスキャンダルは東出ナンチャラのゲス型不倫事件です。こちらの方はかなり炎上し、そのゲスぶりで見るならベッキーのケースが霞むほどのインパクトかと私には思えますが、芸能生命は(一瞬は危ぶまれたものの)保っていける見込みが比較的短期のうちに立ち、さらに長澤まさみの「自分も演じている不倫の形などから、理解できる…」といった主旨のなかなかイミフな助け舟的コメントが重なって、少なくとも私がこの作品を観た際には、その辺の「火消し」はほとんど完璧に完了しているように思えます。そのように考えると、彼の義父のゲス不倫物語や比較的最近の小泉今日子などのケースに比べ、ベッキーのケースの騒ぎの不当なまでの大きさのアンバランスが非常に目立ちます。
作品を観てみて最初に思ったのは、「これは本当に『コンフィデンスマンJP』の映画たるべき作品なんだろうか」という疑問です。「嘘から出たまこと」という表現があります。辞書で見ると、「嘘として言っていたことが、結果として本当になってしまうこと」のような意味が載っています。それが偶然のことなのか、元々冗談で言ったことであって、本来、元々そうであったということなのかなど、シチュエーションは色々ありそうで、厳密にどのような構造の展開を指して言う言葉なのか、どうも私は意味が明確に分かっていません。しかし、辞書的な意味に拠れば、間違いなく本作は「嘘から出たまこと」の物語です。
今回、ダー子はコックリと渾名されている詐欺仲間の子供で、その親の死後は、虐待を平然とし続ける女詐欺師の下で詐欺の片棒を担がされている、不幸感全開の少女を救い出し、自分の一味に加えます。そして、シンガポールの大富豪の忘れ形見の少女として大富豪の遺族の中に送り込みます。この既存のダー子一味ではない人物が詐欺の中心人物になっているという点が、既に他の『コンフィデンスマンJP』の物語と大きく異なる展開です。劇中でそのような判断をした理由は特に明確に説明されていません。
ところが、大富豪の“発見された実の娘”として語学やテニス、各種のマナーなどを、一緒に母親として叩き込まれているダー子の言葉を借りると「この歳になってやらされる『ドラゴン桜』」状態になると、コックリはそれを恵まれた生活として捉え、その立場にいられることに感謝し、他の自分の周囲にいた恵まれない子供達に対して“申し訳ない”とさえ思う純粋な気持ちを自分の中に育てて行きます。
それが、元々逝去した大富豪が望んでいた尊厳ある富豪の立場を体現していくようになり、決して奢ることなく贅沢に走る訳でもなく、富豪の本当の後継者として相応しい言動や考え方を身に着けて行くのです。このコックリの成長を間近で見たダー子は早々に詐欺を諦め、コックリを大富豪の娘として確定させるための仕掛けを施して、散々の苦労の末、彼らの言葉で言う「おケラ」の状態で活動を終えることを選ぶのでした。
『マイフェアレディ』や『プリティ・ウーマン』にさらに大きな感動を加えたような物語に仕上がっています。コックリの言動には涙を誘うほどに気高いものがあり、純粋に感動を呼ぶ話として認識できます。ただ、だからこそ、先述の通り『コンフィデンスマンJP』の物語として妥当であるのかという疑問は余計に禁じ得ません。詐欺に成功したものの、仕込みの経費が掛かり過ぎて殆ど儲かっていないようなケースは過去にありましたが、儲けるための詐欺活動を途中で諦め、「おケラ」を想定したままの活動を続ける…という展開は、シリーズ中で初めてではないかと思います。
これは詐欺の物語ではありません。ジブリの手による『ルパン三世 カリオストロの城』も、ルパンは何も金品を奪わず、クラリスの心を盗んだと銭形が喝破するシーンは有名で、その構図は先般創られた初の3Dアニメ『ルパン三世 THE FIRST』でも維持されています。しかし、原作者のモンキー・パンチは「ルパン三世は女の手を取って助けたりしない」と言う主旨の発言をして、『ルパン三世 カリオストロの城』が本来のルパン三世のあるべき姿から乖離しているということを指摘していたと言われています。
これと同じ「これじゃない感」がこの作品には漂っているのです。この点はどうも制作者側も余程意識的であったようで、変に言い訳のようにこの展開が故人の遺志に沿ったものでもあったという辻褄合わせの付録動画まで映画の末尾につけています。ダー子一味は、基本的に義賊的な立場をとっていて、悪党から毟り取ることでたくさん稼いで、その直前にその悪党から被害を受けた人に(だけ)は少額還元するという活動をしています。ところが、今回はそのスタイルが完全に崩れています。
面白いには面白いですし、ヤクザのおじさんがダー子印のまがい物をつかまされたり、五十嵐がいつもの如く邪険に扱われたり、定番のオープニングも当然な感じで、うまくまとまってよくできていることは間違いないのですが、どうも変にコンプライアンスを意識しすぎて毒がありません。まるで、どうしてもキラを破滅させねば気が済まなかった『週刊ジャンプ』が創り上げた『DEATH NOTE』の第二弾のように予定調和的な味気無さがどうも気になります。それでもギリギリDVDは買いの作品かなとは思います。