『デンジャー・クロース 極限着弾』

6月19日から3週間弱。バルト9の木曜日の午前9時10分からの回を観に行きました。関東でも10ヶ所、23区内では2ヶ所でしか上映していません。さらに、どうもよくよく調べてみると、この木曜日が関東の2ヶ所では最終上映日であったようです。1日1回しか上映されていません。観客は男性が私も含めて5名しかいず、全員40代以上には見えました。梅雨の大粒の雨が頻度少なくぽつぽつと降り続ける中、平日の開館直後にいきなり来られる客がこれだけ存在するという風に考えると、もしかすると、なかなかの奮闘ぶりなのかもしれません。

この映画を観に行くことにした理由は、ベトナム戦争の中のオーストラリア軍の戦いを描いている点です。昨今、ベトナム戦争に喜び勇んで参加して、虐殺と強姦を行く先々で重ねた韓国軍の問題が徐々に世界世論化しつつありますが、当然、そのようなテーマが描かれる映画がそう簡単に作られる訳はありません。ただ、極端に素人的な構造にまとめると米軍対北ベトナム軍という構造のベトナム戦争映画ばかりが多数ある中、オーストラリア軍の話は珍しいのは間違いなく、あまり観たい映画がない中でノルマを果たすためにも、観てみるかと思い立ちました。

1966年のロング・タンの戦いという戦局を描いた物語と映画サイトにあったので、ウィキでベトナム戦争を調べ、つい調子に乗って何時間も読み込んでしまいましたが、その中に一度もこのロング・タンの戦いは登場しませんでした。通常の検索サイトで検索してみても、この映画の話ばかりヒットして、一般の説明は見当たりませんでした。それぐらい、少なくとも日本語圏ではマイナーな扱いの戦闘だったということになります。

それもそのはずで、この戦闘は本国でさえあまり知られていないようです。パンフによると…

「ベトナムに行った兵士たちは決して理解されることはありませんでした。彼らは唾を吐き掛けられ、傭兵とさえ呼ばれていました。RSLクラブ(退役軍人慰安施設)へ足を踏み入れることさえ許されなかった」

とあります。

「デンジャー・クロース」という表現を私は初めて知りました。映画を観ると、攻撃してくるベトナム兵の大群に対して、前線のオーストラリア軍兵士は弾薬も(劇中一度ヘリコプターでの補給を受けていますが)全く不足し、重火器さえ持ち合わせていない状態でした。頼りになるのは、後方の彼方(装甲兵員輸送車でさえ悪路の中1時間を要する距離)の基地の砲兵隊が最大1分間に6~8発放つ砲撃だけです。刻一刻と押し寄せてくる敵軍の位置をいちいち無線で前線から本部へ連絡し、本部がさらに座標を特定して砲兵隊に連絡するというタイムラグが発生しています。砲撃が着弾するとその直撃ポイントの兵は勿論、周辺半径5メートルぐらいの兵は吹っ飛ぶぐらいの衝撃があるように見えますが、10秒に1発程度の発生する着弾エリアを敵軍兵士が駆け抜けると、あとは、自軍の至近距離での白兵戦しかありません。それでも砲撃を利用して敵を食い止めようとすると、タイトルの通りの「デンジャー・クロース」の砲撃を前線の部隊自らが要請して、自軍もダメージを受ける覚悟で相打ちを狙うしかなくなるということでした。

さらに、伝達のメカニズムのみならず、たくさんの不測の要因が作戦の運用に悪影響を及ぼします。作戦中に(劇中では1回ですが、パンフによると2回)落雷が基地を襲い、無線機を一時的に不能にしたり、前線でも敵の弾で無線機が破壊され、座標を送るどころか、作戦指示そのものを基地から受けられなくなり小隊が丸ごと孤立するようなことも起きます。元々ブッシュの草木で視界が悪い所へ土砂降りが降り注ぎ、敵の襲来を感知しにくくなります。さらに、敵の方は車輪のついた台座で引っ張れる機関銃を装備していて、打ってくる弾の数は比較になりません。

そんな中で、新兵ばかりで構成されたオーストラリア軍の小隊は、まるで『ジョジョの奇妙な冒険』第五部のジョルノ・ジョバーナのような感じで、「戦いの勝敗は覚悟で決まる!覚悟こそが道を拓く!」とばかりに、デンジャー・クロースを連発します。実は劇中では、デンジャー・クロースを連発する前に既に特定の全滅寸前の小隊が、デンジャー・クロースでさえなく、自軍の位置に砲撃をするように要請して、本部や近隣部隊にいる上官達を精神的に追い詰めます。自軍の至近距離に砲撃するだけでも躊躇するのに、自軍そのものを攻撃する判断は「許されない」として押し問答が起こりますが、前線の指揮官の「今ここを叩かねば、自軍は確実に全滅し、敵はどんどん侵攻してしまう!」と強硬に自らの部隊への砲撃を主張しています。

その相剋を結構な尺で描いた後に、デンジャー・クロースを連発されても、「ああ、また、同じ状況に陥っちゃうよ」ぐらいにしか観客は思えないようになってしまっているように思えます。かなり史実に忠実な展開の作品のようなので、時系列的にそうであるのでしょうが、物語としては、デンジャー・クロースをタイトルに掲げる割に、わざわざその悲惨さを軽んじるような展開になっています。

しかし、それでも尚、この映画は戦争の理不尽さや無慈悲さを描写して見せることに成功しているように思えます。その理由は、ノンフィクションに近い物語構成と、圧倒的な近距離銃撃戦の迫力を、そして、それで破壊され吹き飛んでいく兵士達を、冷徹に写し撮って何の躊躇もなく提示するからだと思います。その兵士達もほとんど全員、名前が認識されているか、最低でも一言二言の会話をしているため、それなりに人格などが分かるようになっています。

ベトナム戦争映画は、有名どころの『地獄の黙示録』や、敢えて言うと『ランボー』などのようにかなり荒唐無稽の域に入ったものがある一方で、『プラトーン』や『ハンバーガー・ヒル』など、無目的に見える戦闘の中で人間の命がどんどん消耗されて行く理不尽さを真っ向捉えた作品群が対極にあるように感じています。さらに、名画である『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』や『キリング・フィールド』のような踏み込んだ内容の完全ドキュメンタリーもありますし、ベトナム戦争の社会的な影響を描いた作品群も、『7月4日に生まれて』や『イエスタディ』、『友よ、風に抱かれて』、『ジェイコブズ・ラダー』など、多数存在します。

これらのベトナム戦争がテーマの映画群で、私が一番カテゴリー的に好きなのは、ドキュメンタリーもので、次点で理不尽な戦場の現実を真っ向描いた作品群です。このタイプでは、私は『ハンバーガー・ヒル』が一番好きです。今回の作品は、明らかに理不尽な戦いを真っ向描いたタイプで、『ハンバーガー・ヒル』には、少々及ばないものの、優れたドラマになっているように思えました。現実に忠実に描けば必ず良い物語になる訳ではないものと思います。そのように考えると、パンフの幾つかの制作側の人間による文章にもある通り、やはり、題材選びと武器に至るまでの詳細な再現の二つの要素の組み合わせが、この作品を優れたものにしているように思えます。

この映画を観ると、先述のような不測の事態の度重なる発生で、全く作戦が思う通りに進んでいません。米空軍の空爆も要請して一応実現していますが、北ベトナム軍の機銃掃射の嵐の中で、まともに発煙筒も投げられず、空爆すべきポイントを爆撃機に伝えることができなかったため、全く無意味な場所を焼き払う結果にしかなっていません。よく企業経営において強調されることの多い、不確定要素が多い中での意思決定の重要性や現場・現実を制することの重要性が、非常に納得できます。

多くの米国映画同様に、この映画でも、白人は多数の登場人物に人格が付与されていることが明確に分かりますが、北ベトナム軍の大量の兵士は、ただただ大量のモブとして登場して、片っ端から殺されて行きます。誰が殺されても、他の兵士はそれを救おうともしないどころか、気にも留めていないように見えます。「敵は爆撃にも全くひるまず一直線にこちらに突撃してきます」と白人達は恐れを抱き始める様子がよく分かります。それが単純な全体主義的な個々の命を尊重しない態度であるのか、自分の使命を正しく理解した全身全霊の行動であるのか、白人兵士たちにとって解釈が難しいようにも思えます。

私は祖父がガタルカナルの激戦で戦死しています。色々な日本軍が登場する戦争映画作品で、日本軍の兵士が突撃する中で闇雲に消耗させられていく場面などを見ると、無意識下で不愉快な気分になります。その意味では、今回も黄色人種がただの“次々と襲い来る大量の不気味な生物”として描かれていて、見ようによっては黄色人種相手のシューティング・ゲームのようになっているのが、やや腹立たしく感じられます。現実にそのような特攻状態の結果、死者は黄色人種側が白人の10倍以上発生しています。

しかし、『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』で描かれている、ありとあらゆる傲慢な考えを持った白人達を、徴兵されてすぐで戦場の現実も戦況の現実もよく分かっていない段階で、どんどん追い詰めて恐怖させ、そしてその一部を理不尽に殺傷して行く北ベトナム兵に喝采したい気分も僅かに芽生えます。

現在、全米から一部他国にも広がった“Black Lives Matter”運動は、それなりのインパクトを欧米社会に与えそうに思えます。この映画では、(自分達も捨て身の攻撃を是としていますし、豪軍から見れば当然殺害する対象そのものですから)自他共に顧みられることのない“Yellow Lives”を持つ人々が、雲霞のように攻め込んでくることで、本来世の中的に尊重されるべき“White Lives”を持つ人々に、自らの命を捨てる覚悟を迫っています。

元来、生物として考える時、種の生き残りのためには個の命などどうでも良い存在です。どんな“Lives”もその程度のものでしかありません。ならば、肌の色によらず、“Any Lives Don’t Matter. Each Spieces Does Matter.”であるはずです。これが妥当な判断なら、白人は自分達個々人の命が無価値であると思いたくないが故に、仕方なく今回黒人の命も大事だと言わざるを得なくなったように思えてなりません。ところがこの映画は、黄色人種の人々が簡単に捨て去る命と等価な位置に白人の命も引きずり下げることで、そんな白人の独善的な希望さえも破壊しつくしてくれます。そのような構造的に見ても、なかなか小気味よい作品と見ることもできます。DVDは買いです。