『グリーン・ライ ~エコの嘘~』

 3月末の封切から1週間経っていない木曜日の夕方。普段あまり行かない渋谷東部にポツンと存在するミニシアターの1日3回の上映のうち午後5時からの回を観に行ってきました。この映画館に行くのは、このブログを書き始めた頃に『いのちの食べかた』を観た際と、その時にトレーラーで興味を持った『いま ここにある風景』を観に行って以来ではないかと思います。(もしかしたら、もう一回ぐらいあるかもしれませんが…。)

 この映画館は鬼門です。館内にシアターは二つあるのですが、各々が100席に満たないサイズで、おまけに他館では上映しないようなマニアックな作品ばかりを上映し、さらにそれが、渋谷と言うよりも、表参道や青山に連なる「意識が高い」と思われる人々にフィットする路線なので、簡単に満席になるのです。ウェブで予約して行くということがなかった時代には勿論、予約ができるようになってからも(何かの事情があって行けなくなることを考えると、避けたくなるので)やらない予約なし状況で観に行く私には、わざわざ行って空振りになるリスクの高い映画館なのです。

 今回、この映画館でも仕方ないから観に行こうと思えた理由は、端的に他に観に行くべき作品が存在しないからです。先月の段階で観に行っても良いかと思えていた『ヲタクに恋は難しい』はミュージカル的なシーンが多いと知り、それに好感を持てない私はパスと決めました。さらに『AI崩壊』もテーマは一応商売柄も関心を持てる分野なのですが、タイトルが「『AIが崩壊』する訳ないじゃん」と思えてしまい、まるで『進撃の巨人』(というタイトル)のように納得感が持てず、おまけに本編の大部分が逃走劇と聞いて関心を失い、それが2時間以上の尺の作品と聞いて、鑑賞を断念しました。番狂わせです。

 さらに、堤真一がそれなりに好きで、『決算!忠臣蔵』を観逃したので、観ても良いかと思っていた『一度死んでみた』は、主演の広瀬すずの存在に気が進まず、予備役的状態です。とすると、4月17日封切の『デンジャー・クロース 極限着弾』と4月24日封切の『エンボク』ぐらいしか観たい作品がありません。しかし、通常封切後に一定期間を開けて観に行く私としては、4月の鑑賞ノルマ2本にこれらが組み入れにくいタイミングであると考えざるを得ません。そんな中で、敢えて観ても良いと思える作品を探したら、この作品しかなかったのです。そして、この作品は日本全国でもたった二館でしか上映されておらず、関東ではたった一館、この鬼門のミニシアターしかなかったのでした。

 普段なら、その時点でこの作品を却下していたかもしれませんが、猛威を振るう(と言っても実態は単なるインフルエンザ擬きの)新型肺炎に対する空騒ぎの延長で、この館は私が観に行く木曜日から空席を意図的に作ることで、観客が隣接するのを排除すると謳っていました。これで、座席数は50弱になるので、より「音楽椅子」リスクは高まることになりますが、首都のロックダウンだのとデマに踊らされる人々が膨大に存在し、「少ない座席」と謳っている方がより危機感を煽っているという状態に賭けてみることにしました。行ってみたら予想通りで、その後の半日がとても浮かれていられました。観客は私も含めてたった4人でした。

 4人の観客は私を含む男性二人と女性二人でした。私以外の、前方座席に座っていた男性の後頭部はそれなりに若いように見えました。女性の方は、開始直前に20代と思われるOL風の一人が入って来て、その後、トレーラーを上映している短い時間に40代の一人が現れました。上映の約一時間前にチケットを買った際に、私は間違いなく第一号の観客でしたが、なぜか、その座席配置をどう解釈したのか、20代の女性は私の隣の隣に陣取って観ることに決めたようです。50近い席の中でなぜそのような判断をするのか全く理解ができません。

 環境系の海外ドキュメンタリーの映画は過去にも色々と観て来ました。『ポバティー・インク ~あなたの寄付の不都合な真実~』や『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』、『ザ・トゥルー・コスト ファストファッション 真の代償』、『100,000年後の安全』などがそうですし、先述の『いのちの食べかた』や『いま ここにある風景』もそうです。それらは、主張内容の段階で既に欧米の手前勝手でおかしな価値観に裏打ちされていて全く共感も賛同もできない内容であることもありますし、一応納得も共感もできるものの、あまりの欧米企業の悪辣さに、日本企業でそこまで利益至上主義で海外の国々の搾取を進める企業は考えにくいものと思える内容であることもあります。

 いずれにせよ、多くの作品群は構成が雑であとあと勝手に頭の中で反芻されて止まらないようなインパクトを残したものはこのブログを書き始めてからは存在していません。ブログに載っていない中で、ダントツの没入感と訴求力を誇るのは『ダーウィンの悪夢』です。この作品に迫る「質」の環境系海外ドキュメンタリー作品に回り逢ったことがありません。

 今回も環境系海外ドキュメンタリーですが、『ダーウィンの悪夢』に迫る面白さはありませんでした。構成も結構雑な感じがします。しかし、先述の一群の環境系海外ドキュメンタリーに比べて、タッチが軽妙で(失笑も含めて)笑えてしまう箇所まで存在する、非常に稀有な作品であるのは間違いありません。理由は狂言回しのように話を展開して行くのが、性格や背景の異なる男女に二人によるところが大きいものと思います。一人はこの作品の監督であるヴェルナー・ブーテという男性です。彼は漫才で言う「ボケ」を軽妙に演じてくれます。そこへ「ツッコミ」を務めるのが企業のグリーンウォッシングの専門家と言うカトリン・ハートマンと言う女性です。

 私はグリーンウォッシングと言う言葉をこの映画で初めて知りました。ウィキに拠れば、(企業などが)「環境配慮をしているように装いごまかすこと、上辺だけの欺瞞的な環境訴求を表す」とのことでした。ハートマンはこの分野の専門家だけあって、企業の様々なグリーンウォッシングの事例について時系列にきちんと頭の中で整理された膨大な量の知識を持ち合わせており、ブーテが何かを不用意な発言やナイーブな意見を言うたびに、マシンガン・トークでそれを論破・訂正します。

 映画の主たる物語は、MovieWalkerによると…

「2015年に発生したインドネシアの熱帯雨林火災は、広大な面積を焼き尽くすインドネシア史上、最悪の環境災害となった。その直接的な結果として10万人以上が死亡、50万人以上が煙霧により長期的に苦しむほど。この火災が、パーム油のプランテーションのための広大な土地を確保することを目的に、意図的に引き起こされたことは公然の秘密となっている。パーム油は、ほとんどの既製食品やスナックに利用されるなど、世界で最も広く使用されている有益で安価な脂肪分を含む原料である」

 というものです。今も続く意図的な熱帯雨林の大火災を引き起こしている人物や企業組織を追いつつ、彼らの政治的答弁や大本営的発表内容を現場現実と対比させつつ糾弾して行くのです。

 この映画を観て初めて知ったことがもう一つあります。それは、海外の多くのグローバル企業群が、「サステイナブル(劇中でもチラシでも「サステナブル」と表記されていますが、発音的に正しくありません。)」を企業ポリシーに謳っていることです。問題のパーム油を使った菓子類などにもEUでは「サステイナブル」であることを示す業界基準のマークが付けられているようです。最近、ビジネス書でも「持続可能な成長」をテーマに含むものがチラホラ観られるようになっているのは知っていましたが、海外においては、これほどに意識されていることを知りませんでした。日本ではこのような概念はイマイチ支持を得ていないように私は感じています。

 と言うよりも、日本でこのようなことは既にほぼ誰でもが普通に意識して生活に組み入れているから、そのような概念を今更普及させる意義が薄いということだろうと私は考えています。ケニア出身の環境保護活動家でノーベル賞も受賞したワンガリ・マータイが、「もったいない」を世界に訴えたという話は有名ですが、その「もったいない」の感覚は日本人ならほぼ誰しもが持ち合わせています。資源を3Rしようと、学校でまで運動として行なったり、それ以前に、食事の前に「命をいただく」と言う意味で「いただきます」と挨拶するなどの習慣もすべて「もったいない」と通底するものであろうと思います。

 たとえば、捕鯨問題一つをとっても、鯨を遠洋航海時の海に浮いた機械油タンクと見做して、虐殺しては油だけとって総て海に投棄していたのは、欧米列強の船の方です。世界的な統計の無い時代に散々鯨の総数を激減しておいて、伝統的な文化としての捕鯨を伝える国にモノを言う烏滸がましさが理解できない傲慢国家だらけです。

 高度成長時代までは日本も環境汚染があちこちに見られ、私が子供時代に見た『ドロロンえん魔くん』などのアニメでも、妖怪や野生生物が人間の強欲によって追い詰められていることがよくテーマとなっていました。しかし、そこから日本においては「もったいない」の概念が演繹され、工業生産などの過程にも広く浸透するようになったと私は思います。勿論、消費期限への過剰な対応から発生する食品廃棄などの問題など、まだまだ様々な「もったいない」問題は存在するものの、基本的に日本人には自分達を自然や環境の一部として認識し、全体と共に生きる発想があるように私は思います。

 それに対して、自然も天然資源も生物も土地も他人種も、持ち主を決めては、互いに奪い合ってその量を競い、何かにつけて、それらを支配しようと考えるのは、多分、聖書で神がそう教えているからでしょう。多くの一神教の狭量さをここでも感じざる得ないように思えます。

 ハートマンの一部の主張は、私が『偽善エコロジー』で読んだ内容と酷似していて、それなりに理解できます。一人一台の車所有を全国津々浦々で止められない米国の人々に対して、人口のかなり高い割合が電車などの公共交通機関を使う日本を比べても、どちらが持続可能性が高いかは論を待たないことでしょう。しかし、ハートマン自身も現代社会の生活において環境破壊に知らず知らずに加担せざるを得ないことの罪に時々苛まれると言っているように、それでは、究極的にどのような変化を経てどのような暮らしを私達がするべきであるのかをハートマンも提示することができないままに映画も終わっていますし、多分、グリーンウォッシングを糾弾する人々全部が概ねそうであることでしょう。

 BPの油田大火災による犯罪的環境汚染の事例も紹介されていますが、確かにやり過ぎ感のある酷い事例であると私も思います。しかし、すべての企業がそのような犯罪的手法をバンバン採る訳ではありません。ヒステリックに酷い事例を列挙しては、「企業悪玉論」を振りかざしても、結局は、与党のやることをただただ批判することしかできない万年野党とあまり立ち位置に違いがありません。

 また、ハートマンはブラジルの先住民が牧畜用に収奪された土地を団結して取り返していく運動を、企業活動に対して一般の人々が声を上げた優れた事例として紹介しています。確かに、「企業悪玉論」に則れば優れた事例ですが、彼らが土地を取り返して、その土地でただ数百年前の共同体のような社会を実現するというだけで話が済むようには思えません。米国のアーミッシュのように文明と隔絶された生活を規範を以て守るような仕掛けも思考も存在しているようには見えないからです。理不尽な搾取や過剰な資源消耗は確かに避けるべきですが、ブラジル先住民の子らもスマホを手にして、リーダーのスピーチをSNSにアップしていたりするのです。その工業製品を使うことの是非はなぜ問われないのかが不思議です。

 グレタ・トゥーンベリなる少女が二酸化炭素対策が遅いとヒステリックに喚き回っているようですが、彼女が乗らないと言った飛行機は二酸化炭素を多く排出し、彼女が乗った客船ならそうではないという理屈さえ、子供じみています。客船だって、その製造プロセスや関わる技術者や運用に関わる人々、そして各種の関連施設の製造などが、どう考えても大量に二酸化炭素を排出しているであろうからです。原始世界の狩猟生活に全人類が戻ることがない以上、結局、どこかに線引きをした上で一定以上の利便性を追求するなとする以外に結論は出ないことでしょう。

 その答えなくして、派手な犯罪的行為や詐欺的行為を重ねる企業群をただただ糾弾することの空理空論にまでハートマンの思索が辿り着いている点、そして、その道程をボケとツッコミのノリで軽快に見せてくれる点。これらがこの作品の他の環境系海外ドキュメンタリーに比して圧倒的に優れている所だと思いました。マイケル・ムーアの作品群にあるような風刺と深刻さのバランスの妙が存在しています。DVDは買いです。

追記:
 なぜか二人の主人公達は、社会の変革の可能性や方法論についてプロの意見を聞こうとして、MITのチョムスキーを訪ねています。ウィキで見ても「アメリカ合衆国の哲学者、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者」でしかなく、なぜ社会の変革について、チョムスキーに尋ねたのか全く分かりませんでした。そして、チョムスキーの答えも何か漠然とした抽象論でしかなく、単なるフィルムの無駄に感じられてなりません。

追記2:
 テキサス大学のラージ(Raj)・ナンチャラとかいう学者が、「消費者は栄養学や生化学、物理学やビジネス法学など多種多様な分野の専門知識を持ち合わせている訳でもないのに、製品に記載された免責事項や取説はどんどん複雑化して、支持する企業とその商品に対する人気投票としての購買は最早不可能となっている。消費者の(購買と言う)投票によって、淘汰されるべき企業が淘汰されるというメカニズムは幻想だ。淘汰されるべき企業は国が定めた法によって淘汰されるべきなのだ」という主旨のことを熱弁しています。全くその通りです。しかし、権威性や知識主義にアンチで、プロが評価するミシュランよりも、ぐるナビ的なサイトの方をより正しいと感じる米国人に果たしてそんな「淘汰基準」が受け容れられるのか、私には強く疑問に思えました。