12月21日の封切から1週間余。2019元旦に観てきました。ディズニーアニメ最新作で封切から日が経っていないため、1日に5回も6回も上映している館が多く、札幌市内の映画館で且つ札幌駅直結の映画館よりもすいているであろうことが想定できる映画館ということで、札幌市の中心部から僅かに離れたビール工場跡の商業集積にある映画館に観に行くことになりました。
不思議なことに、いつも行く小樽の映画館でもこの映画館でもこの作品はすべてが吹替作品のみで、札幌駅直結の方ではすべてが字幕であったようです。これが札幌界隈の上映常識なのかどうか分かりませんが、首都圏ならマルチプレックスの場合、大抵、字幕と吹替の選択肢が揃っているような気がしています。
いずれにせよ、海外作品を吹替で観る多分『脱兎見!』始まって以来の体験に挑むこととなりました。
午後1時半からの回は100人近くの人でシアターの席は大方埋まっていました。親子連れが圧倒的多数で、少数派ではありますが両親と子供の“団体”もいました。若いカップルや集団もいましたが、あまり目立ちませんでした。子連れ客の子供の年齢層はかなり低く、この映画の内容を一定レベル以上で理解した上で愉しむには明らかに若すぎるように感じました。
基本的にディズニー系のエンタテインメントが嫌いな私ではありますが、TDR系などの3次元物や古典的なキャラクター群は基本的に無理筋ではあるものの、最近のアニメ作品はそれなりに耐えられるようになって来ています。元々はピクサー(ピクサー・アニメーション・スタジオ)の作品なら、米国作品でもまあまあみられると思えるようになったのが大きいと思います。
それ以前の時代の海外製のアニメは絵もちゃっちく、物語は勧善懲悪全開のバカ丸出し状況で、「日本アニメを知っている人間で誰がそんなものを見るのか」ぐらいにしか思えませんでした。ところが幼稚園に入る前ぐらいの娘に『モンスターズ・インク』のDVDを買い与えて一緒に観たところ、娘は飽きずに1日に何度でも見るぐらいにハマり、私も主人公の二体のモンスターのうち巨漢のマイクのふさふさした体毛の肌理細かな描画の質の高さに見入ることになりました。
『モンスターズ・インク』は2001年の作品で、2003年の『ファインディング・ニモ』も娘は好きであるようでしたが、私はその翌年に出た『Mr.インクレディブル』が面白く観ることができました。いずれにせよ、私にとって、ピクサー作品は海外アニメで唯一観ても良いと思えるブランドになったのでした。ところがそのピクサー・アニメーション・スタジオは、2006年にディズニー傘下になったしまいました。その後、私が持っている印象では、ピクサー作品は何か大胆な面白さが薄らいだように感じ、買収した方のディズニーアニメの方の絵の質感は格段に上がったように思えます。こうした経緯で、ディズニーの2D・3Dを問わず各種コンテンツの中で、ディズニー制作のアニメだけは、或る程度私の関心の範疇に入るようになったのです。
そんな私が、第一作の『シュガー・ラッシュ』も見ていないのに続編の『シュガー・ラッシュ:オンライン』を観ることにした最大のきっかけは、トレーラーを観たことです。トレーラーでは、娘が小さい頃から好きでグッズもいくつか買い集めていた、ディズニー・プリンセスが総出演しているのです。そして、『シュガー・ラッシュ』から続投のヴァネロペという小柄なレーサーの少女が彼女らの部屋に紛れ込んでしまったことから、彼女たちとのやり取りが始まった状況がトレーラーで紹介されているのでした。その内容が衝撃的でネットのニュースでも『歴代プリンセスによる自虐ネタがとまらない!? 『シュガー・ラッシュ』豪華共演シーンが解禁(2018年12月27日)』などと取り上げられています。
第一作で登場したヴァネロペは、米国の田舎町にポツンとあるゲームのアーケードにおいてあるゲーム機の中の世界に棲むゲーム・キャラです。彼女の棲むゲーム『シュガー・ラッシュ』はお菓子の国のレーシング・ゲームです。レースのドライバーをプレーヤーは選ぶことができ、ヴァネロペを含め10人以上の選択肢があるようです。そのキャラは日本の竹下通り系女子高生文化を参考にして作られたと第一作のパンフにも書かれており、とても、あのベタにダサい外観を平坦な絵で描いただけの『パワーパフガールズ』などとは比べ物にならないぐらいに可愛い系のファッションになっています。ファッション・センスだけなら2007年から日本で放送された『ルビー・グルーム』の主人公の方がゴスでキッチュですが、やはりベタ塗りの絵面はヴァネロペ達が大きな進歩を遂げています。
そしてヴァネロペの価値観もかなり現代風です。ヴァネロペは「仕事」としてゲームのレーサーをゲーム機で演じる際にはレーサーのコスチュームになっていますが、「オフの時間」には上はパーカーを羽織っているカジュアルさです。おまけに、ネットの世界の中に、自分が求める未知の危険が常にあるレーシング・ゲームを見つけ、自分を生み出したアーケード・ゲームの中での「仕事」も捨て、アーケード・ゲームの世界で漸く見出した友人も捨て、ネットの世界に残ることを選べる割り切り娘です。『置かれたところで咲きなさい』などとは決して考え至ることがなさそうです。
迷い込んできたヴァネロペを取り囲み、14人の歴代ディズニー・プレンセスたちがヴァネロペを質問攻めにして、ヴァネロペがディズニー・プリンセスか否かを確かめるシーンがまず展開します。
白雪姫が「真実の愛のキスはした?」と尋ねると、「うげっ!キモーい」とヴァネロペは応じるなどして、最後にラプンツェルが「じゃあ一番大事な質問。男の人がいなければ何にもできない女の子だとみんなに思われてる?」と尋ねると、初めてヴァネロペが強く同意して、「そう!それってムカつくよね」と答えます。するとディズニー・プリンセス全員が「本物のプリンセスよ」とヴァネロペを仲間と認めます。このプリンセス達もヴァネロペ同様に、それなりの立体感あるアニメキャラで描かれているので、なかなか魅力的です。
しかし、その魅力以上に、ネット記事が「自虐ネタ」と伝えるほどに、自分の作品の主人公達の“真剣で必死な物語”を笑いネタに自らしてしまうディズニーのスタンスに、私は強い関心を持ちました。
実際に観てみると、このやり取りは劇中でさらに長く描かれていて、ヴァネロペのファッションが14人の興味を引き、全員、超カジュアルな服装に変わってしまいます。ヴァネロペ同様に「オフの時間」は全員その格好にすることに決めたようで、後で出てくる全員一丸となった見せ場でも皆カジュアルな格好のままです。一応私も半分ぐらいのプリンセスは顔で分かるものの、それでも服装がかなり識別の材料になっています。それが全員ファースト・ファッション系の格好になってダラダラ寝そべるなどして話している様子を見るだけで、十分笑えます。
この時点で、プリンセスたちはどこかの牢獄に幽閉されたり、毒母や毒姉の面倒を見る立場に甘んじたりすることには、多分もう耐えられなくなっていることでしょう。「プリンセスなら、誘拐や監禁されたりする?」と尋ねられて、「大丈夫?警察、呼ぼうか?」と応じるヴァネロペの価値観に染まってしまったなら、「監禁や誘拐」も毒を盛られることも、「そのような設定の役割を演じる仕事」として受け止めなくてはならなくなることでしょう。
しかし、考えてみると、これはかなり危険な冒険です。たとえば『北斗の拳』には、やたらにダサいパンピーネタ全開の『北斗の拳 イチゴ味』というパロディマンガがあります。「原案:武論尊・原哲夫」とクレジットされていますが、作者は別人です。これをオリジナル作品の原作者が描いたら、やはり、ファンの期待する世界観が壊れてしまうように思えます。オリジナル制作者側がパロディものを描いているという観点では、『ウルトラ怪獣散歩』が近いかもしれません。制作はフジテレビとなっていますが、怪獣の着ぐるみはオリジナルですので、かなり積極的に円谷プロが関わっているのだろうと私は思います。MCのメフィラス星人には、オリジナルの作品では絶対に描かれることのない、勝手な性格が割り当てられていますし、他のゲスト怪獣も同様です。完全にオリジナル作品群の冒涜と言ってもいい世界に踏み込んでいます。
しかし、これもギリギリ或る一線を越えずに踏みとどまっています。その一線は、怪獣達は物語の主人公ではないということです。仮にウルトラ兄弟が出てきて、「セブン、おまえさ。予算が少なかったからって、怪獣や宇宙人の着ぐるみ全然でない回とか、汚ぇよ」とか、「タロウ、おまえさ、父と母の本当の子供なのに、いきなりデカい鳥につつかれて負けてんじゃねぇよ」とか会話し始めてはダメだと思うのです。「いやいや。『帰ってきたウルトラマン』とか言って、本当は別人って、サギじゃん。あとからジャックとか名乗っても、結局、やってることはオレオレ詐欺と同次元だから」などと言うのは、原作者が制作する外伝レベルの作品でも許されないでしょう。『ウルトラ怪獣散歩』は怪獣だから許される作品なのだと私は思います。
私が以前宿泊していたビジネス・ホテルでフロントで流れるBGMにディズニー曲をつい使ってしまっていたら、警告文が来たという噂を聞いたことがありますが、TDRでも(これだけ、ブラック労働で叩かれていても)「着ぐるみなどいない」という想定にも演繹されているように、「夢」の管理にはガチガチの会社であると私は認識しています。着ぐるみの中の人の日常を来場者(ゲスト)に見せることはもちろんありませんし、ミッキーやミニーが休憩時間にジュースを飲んでくつろいでいて、今では同じ傘下になったピクサーアニメを見て楽しんでいる…などといったおかしな設定を見せて来場者を楽しませるなど言う馬鹿げた趣向を披露することはどう考えてもあり得ないことでしょう。
それは、人間の都合に振り回される「創作物」の運命的悲哀にいつか踏み込むことになるからです。その構造をガッツリと見せてしまって売り物にしている作品群があります。今回、トレーラーで最新作ができると予告されていた『トイ・ストーリー』です。人間が見ていない所で、おもちゃ達が自分たちの意思で好きにしているという前提で、おもちゃ達の視点でその毎日が描かれています。子供の人気がどれかに集中すれば他のおもちゃ達は嫉妬して自暴自棄になったりもします。当然ですが、古くなれば捨てられる運命は殆ど必然ですし、壊れてもそのままにされたりもしますし、突如、赤の他人に身請けさせられたりします。それでも奴隷のようにいつか実現するであろう開放を夢見たり要求したりすることはありません。持ち主である方の欧米人が絶対にしないような、運命に対する諦念を持ち合わせている登場人物ばかりが出てきます。一見、ドタバタな子供向けのおもちゃの物語のようですが、かなり重たいテーマを内包しています。
そのおもちゃ達の立場をそのままアーケード・ゲームのキャラに持ち込んだのが、この『シュガー・ラッシュ』シリーズなのです。ここまでは、単に主人公のラルフとヴァネロペがゲーセンの営業時間の間だけゲーム機のなかでの演技の「仕事」をしているだけで、オフの時間は好き放題にしています。ゲーム機同士もコンセントを通じてつながっているので、ゲーム機間で相互にキャラが交流したり、結婚したりしさえします。
しかし、ふと考えると、ヴァネロペはディズニー・プリンセスでもありました。そのヴァネロペは見ている人達に合わせて演技をする「仕事」をしている設定なのです。とすると、他のディズニー・プリンセスも物語の主役を演じているだけなのであって、裏ではオフを自分の素で生活しているということになります。この禁断の領域は『シュガー・ラッシュ』をディズニー映画として作ってしまった時点で構造的に見えてしまっていて、そこに続編で踏み込んでしまったということなのです。それも14人全員をヴァネロペと同じ「プリンセスを演じている役者」の立場に引きずり落とす究極の表現でです。
考えてみると、私が週末にちびちびと見て漸く録画分全部のシーズン4まで見終わった『ワンス・アポン・ア・タイム』というテレビドラマは、ディズニー・キャラが実写でどんどん登場する魔法の国の物語でした。その世界でディズニー・キャラ達は(直接的には描かれていないものの)セックスもすれば不倫もします。ウィキによると…
「ウォルト・ディズニー・カンパニー傘下のABCスタジオが製作し、やはりディズニー傘下のABC系列で放送されており、ディズニープリンセス、白馬の王子、フェアリー、魔法のランプ、お菓子の家などが実写で登場し、特撮やCG合成も駆使されている。『ピノッキオの冒険』(『ピノキオの冒険』)のジミニー・クリケット、『白雪姫』の7人の小人の名前などは、ディズニー版に準拠している。白雪姫が剣を振るったり妊娠したりするなど、本作独自の設定もあるが、ディズニーのブランド・イメージ管理部門から苦情は出ていないという」
と書かれていて、ディズニーは映像作品では、この手のアプローチを既に許容しているということは分かっていましたが、このテレビ番組でも、登場人物たちは「役者として物語を演じていた」という設定ではなく、「おとぎ話の世界にいた時の自分の生活」として物語の中の自分の在り方を認識しています。役割を演じているので、「オフの時間には素の自分がいるのが当然」とは決して思っていません。
日本ではオリジナル制作者は、世界観を守る立場に立つのが普通であると思います。そして、このようなキャラの翻案や物語を演じている役者設定などの“二次作品”を創作するのは外部の(多くは熱烈なファンであるような)人間であって、通常、それは同人活動の形を採ります。「同人誌のタイトル数を見れば、そのオタクショップがどれだけオタクから支持されているかがわかる…」という話を聞いたことがありますが、本来、ファンがやるべき同人活動をオリジナルの制作者が手掛けたくなってしまったところに、米国のアニメ世界の未熟さを感じないではありません。少なくともジブリがナウシカに水着を着せたりしないでしょうし、少なくともサンライズがアムロに「演技だから良いんだけどさ、ブライトって本気で平手食らわせやがんの」などとぶっちゃけたりさせないと思います。
欧米人の感覚からすると、AKBの面々の「恋愛禁止」は人権侵害であり、人間性の否定だと受け止められると聞いたことがあります。けれども、日本人はそれがキャラや役割としてそういうものだと知っていてもそうではないようにふるまうのが約束だと知っています。ならば、(児童ポルノ法が2次元キャラにも適用されるというおかしな構造がはびこり始めてはいるものの)本来人権侵害にもならず、消費者のご都合に合わせた存在であるアニメ・キャラには「演技の裏の素」を存在させないし、創造しないというのが当然であろうと私は思うのです。
そのように考えるとき、ディズニーの誤った一線越えは、非常に稀有な現象として関心が持てると同時に、笑えるネタとしても十分に楽しめました。
また、この作品にはもう一つの魅力があります。舞台が前作のアーケード・ゲーム機を横断する世界から、続編ではネットの世界に移っているのです。ネットの世界の描写はスタイリッシュなイメージの『攻殻機動隊』シリーズのものや、それに影響を受けたという割には、派手さが(実写だから仕方ないのかもしれませんが)イマイチながら実直な感じの『マトリックス』シリーズ(の特に第三作)とか、色々なものがあります。しかし、本作に登場するインターネットの世界は、或る意味、超ポップ調な『セカンド・ライフ』といった感じです。
実在するサイトが、アマゾンやイーベイなど米国発祥のもののみならず、多数、ビルのような形でインターネットの中の世界のなかにそびえたっています。ポップ・アップ広告やそのブロッカー、メールの送受信や動画投稿サイトやオークション・サイトなどなど、その構造や機能が非常に分かりやすく設定されているのです。以前、ポストペットというピンクのクマがメールを運んでくるメーラーがありましたが、その数百倍細かな設定が為されたインターネット内部の構造描写という感じに思えます。ITマスターなどの情報処理系の資格受験を学校のカリキュラムでしなくてはならない娘に、「この設定を活かした動画教材とかが情報処理の科目であれば良いのにね。『ウェブ・サーバ編』とか『ウィルス/マルウェア編』とか」などと言いました。
インターネットの世界で主人公たちはドタバタの騒ぎを起こしますが、格闘しながらPinterest のサイトになだれ込み、そこにあった巨大なピンを武器にして戦ったりもします。アーケード・ゲームの世界から来て何も知らない主人公は、Google のビルの頂上の大看板を観て「ゴーグルを買いたいときにはここに来れば良いんだな。ビル一杯に色々なゴーグルがあるのか」などと言っていたりもします。
ありとあらゆる分かる人には分かるネタが満載にされているという意味では、記号的価値をよく踏まえたマーケティングができる作品になっていると思います。しかし、楽しめはしたものの、ヴァネロペも含めて「オフの時間があるディズニー・プリンセスの設定」をあからさまに提示してしまったことには、疑問がぬぐい切れません。その珍しい現象を記録として持つためにも、DVDは買いです。