『娼年』

 4月上旬の封切からまるまる1ヶ月たったGW後半。1、2週間前にガクンと上映館数と上映回数が減ったのを見て、慌てて観に行くことにしました。場所は歌舞伎町のゴジラ生首ビル。1日に5回ほど上映していますが、深夜の上映を含んでのことです。この館はバルト9とは異なり、翌日が休みの日のみ深夜も上映しています。私が観に行ったのが、土曜日の夜12時10分からの回。その後にも深夜3時近くにスタートする回もあります。この2回を含んでの上映回数で、翌日の日曜日からは上映回数が1日2回ほどに減ることを知っていました。

 シアターに入ると、流石終電過ぎの時間帯だけあって、マルチプレックス内でも最も小さいシアターの設定でしたが、6、7割がたは席が埋まっていて、好きな通路沿いの席を取ろうとすると、前から4列目までスクリーンに寄らねばなりませんでした。

 全部で30人以上はいたと思われる観客の殆どは若い男女で、男女カップル客や女性の二人連れもそれなりに目立ちました。男性で私ぐらいに年が行っているのは、全員単独客で、私も含めて3人ぐらいだったと思います。

 この映画の存在に私が気付いたのは、同じ男優が主人公を務める『不能犯』を観ようと予定していた頃です。チラシやポスターのイメージがこの二作は酷似していて、誤って何度もこの作品の方も観ていたのです。『不能犯』は色々な意味で楽しめた作品でした。それを観るまで主演の松坂桃李は、私にとっては『ガッチャマン』の印象がなぜか一番強く、続いて『ユリゴコロ』の殺意に踊らされる息子で、『彼女がその名を知らない鳥たち』のヘタレデパート店員で、『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳』のオタオタする兄ちゃんです。『不能犯』を観ても、顔が殆ど髪で隠れているキャラだったせいか、殆ど過去作品の役柄から来る彼のイメージは影響をうけませんでした。嫌いな役者ではありませんが、特にすごく好きと言うほどではありません。どこの何を観ても頻繁に登場する染谷ナンチャラや神木ナンチャラに比べたら、飽和感がないので好感を持てるというぐらいの感じです。

 このブログの『不能犯』の記事に「多分、『娼年』を観たら、そこの印象が一番になるかもしれません」と書いていて、何か男優の印象変更が私の中で如何に行なわれるかの実証実験のような動機が一番大きかったように思います。敢えて加えるなら、世の中でカラダを売る女の話は多いものの、カラダを売る男の話は極めて限られているので、一応観ておこうかなと言うこともあります。

 シルク・ナンチャラなど女性向けのAVメーカーが何年も前に設立されていたり、AVの男優のトークショーに女性が大挙して集まって来ていたり、銀座で毎週開催される異業種交流会には、恋愛コンサルタントだか何かよく分からない肩書きで、往年の元AV女優や現役AV男優が名を連ねていたりする時代になりました。そして、「女性にも性欲はある」など、生物的にかなり当たり前のことを、声高に言い募る人もたくさん表立って活動するようになったと思います。しかし、その一方で、やたらにセックスに対するニーズをキワモノ扱いしたり、一般の生活から抉り取って排除しようとしたりする動きもうねりを増しているように思えます。

 そんな中で、男性をカネを払って買う女性がどのように描かれるのか、それなりには関心が湧きました。セックス・シーンの含有比率で言うと、(勿論、ちゃんと測った訳ではありませんが)最近観た名作の『最低。』を大きく上回り、異常性欲者を描いた『ニンフォマニアック』でさえ、全く足もとに及ばないほど、延々とセックス・シーンが続く作品です。これでは、誰が見るか分からないシアターでのトレーラー上映は憚る訳だと納得が行きます。私が見たことのあるこの作品のトレーラーは、本当に短い尺のものばかりでした。

 ほぼ期待通り、登場する女性達が主人公の男を買う動機は様々で色々な背景があり、それがそこそこ描かれていて学びが多かったです。特に最初に現れる男娼売春クラブの常連客の女性は、「我慢すると味わいが増える」と言い、最初のアポでは相応に地味な普通の服装で来て、お茶だけして帰り、翌日には、これからクラブにでも行きますと言う感じのイケイケな服装で来て、トレーラーにも出てくる「私、リョウ君と今すぐしたいな」と主人公の耳元で吐息のように囁きます。初日はあっさりカフェから立ち去ったので、「なんだよ、いきなりハズレかよ」と私も思っていましたが、カフェを出て渋谷の街を漫ろ歩く主人公に売春クラブの女性ボスから電話が入り、「気に入って貰ったようよ。明日も同じ時間に…」と電話が入り、私も「おお。なるほど」と膝を打たされました。

 こんな風に、30代から70過ぎと思える和服老女(さらに、特殊ケースで20代前半の女性一人が後述するように加わり…)まで、数人の女性がその思い思いの重い想いを抱えて登場するのです。その各々の設定には、「なるほどなぁ」と唸らせられるものが相応にはありました。ただ、経済構造として少々不思議に思えるのは、このサービスの安価さです。先述の主人公の最初の客の女性も30代後半ぐらいの設定のように見えますが、このサービスに2日間でたった4万円しか払っていません。1時間1万円で4万円なのです。初日が1時間で、翌日が3時間ぐらいのバランスなのだと思いますが、わざわざ各自のしたいままのデート感を楽しむためのサービスにしては、拘束時間も短く、やたらに安価です。

 通常、サービス商品の「原材料」である人の時給は、サービスの質にかなり強く相関していると私は思っています。それは税理士や弁護士などの商売でさえ例外ではありません。購入できる時間や場所、サービス提供者の選択や行為の内容にまでここまでの自由度があるサービスで、且つ、この作品に紹介されている程度の質の高さが相応に保証されているのに、1時間1万円である訳がないと思えてなりません。これではちょっと高級なマッサージ店と相場が変わらないのです。マッサージ担当とセックス担当で、どちらがサービスの複雑性が高く、どちらがなり手が少ないかは明らかです。客が払った1万円のうち、6000円が本人に支払われるということで、主人公は二日で24000円を手にしましたが、「バーテンのバイトの何日分だろうと思うと…」とやたらに感激しています。

 男性相手の女性スタッフを採用するのなら、競合がやたらに多いので、価格押しをするというのは一応戦略としてアリだとは思いますが、競合も少なく、女性の性的ニーズはより多様な中でサービスをすることになるはずです。私が経営者なら、時給も価格もより高くする代わりに、スタッフを厳選し、それなりに教育を徹底するような高付加価値型を目指すのではないかと思えてなりません。

 無論、この作品の中でも主人公はスタートの時給が6000円なのであって、その後、昇格していく仕組みを駆け上がって行きます。また、最初に売り物になるに当たって、ボスの娘とテストのセックスをさせられていますし、登録後は普段のスタンダードな服装もイメージ・コンサルのようなものを受け、下着選びの指導まで受けています。しかし、それだけなのです。競合激しいホストクラブのようにホスト使い捨ての業界であれば、学んで適応した奴が生き残るという構造は分かりますが、リピーター客が多いらしいこのクラブで、たったこの程度のスターティング対策とたったこの程度の時給で、一定の質の人材が維持できるとは到底思えないのです。

 女性の方に対する価格設定でも廉価すぎるように思えないではありません。単にセックスをして欲求を発散したいということであれば、多分、実質的に女性の風俗産業となっているマイルドなハプニング・バーなどの方が余程安上がりで、時間も自由に、それなりには相手も選びつつ、匿名性も高く、目的を果たすことができるでしょう。それでも、1回あたりの女性の入店料で5000円ぐらいかと思います。匿名性だけなら、所謂大人のパーティー系の場もありますが、ハプニング・バーよりコントロールが効いていませんし、いつでも行ける場所が設定されている訳でもありません。

 亀山早苗の名著『愛と快感を追って : あきらめない女たち』を始めとする幾つかの作品を読むと、イケメンのいる美容院で自分の敏感な頭や髪を“愛撫”されるのでさえ、セックスの代替行為であると定義されています。当然、夫がいる身なら不倫の代替行為と言うことです。イケメン・コーチのテニスやゴルフの個人レッスンなども十分この範疇に入っています。男性以上にこのような定義のサービスは女性には選択肢が広がっています。極論すると、挿入の有無がケースバイケースらしい性感マッサージのようなサービスでさえ、かなり際どい方の位置付けで、それ以前の性欲充足策がたくさんあるということになります。そのような構造を考える時、疑似恋愛を追究し続けるホストクラブの狂乱価格は置いておき、あまりに、この男娼サービスが安すぎるように思えるのです。

 ただ、現実問題として、男娼の主人公のセックスを見ると、最初の試験の際に女性ボスには不合格とされていて、相手の女性の求めるものを全く意識せず、コミュニケーションも取ろうとしていない自分本位のセックスと言うのが、その理由でした。テストの相手だった聾の障害のあるボスの娘には気に入ってもらい辛うじて合格しています。映画の終盤、主人公はもう一度娘相手にセックスのテストで自分のセックスを評価してくれとボスに頼みます。そこで見せたセックスは、ボスも見ていてオーガズムに引きずり込まれるようなものとして描かれています。

 しかし、どうも、そのようには見えないのです。映画の中盤、主人公に片思いをしていて、大学をさぼってバーテン業に打ち込む主人公のバーにいつも講義のノートを持ってきてはただ酒を飲んで帰る女子大生がいます。彼女はネット上にある主人公の男娼としての顔を知り、「女ボスにたぶらかされて、人生をダメにしようとしている」と糾弾し、主人公と喧嘩別れをします。そして、客として買うことで長く思い続けた主人公との初めてのセックスを果たすのです。このシーンは、この映画の一つの大きなパラマウントになっています。そして、彼女は「これが、私の一ヶ月分のバイト代を一回で使い切ってしまうプロの世界のセックスなんだね。もう、リョウ君はこの世界の人なんだね」と嗚咽を繰り返しながら納得するのでした。

 全編の中でも数少ない最初から最後まで描かれるこのセックスの工程を見ていると、ほぼAVそのものです。それも、AV女優のデビュー作では決して採用されないようなハードな部類に入るセックスで、不自然な体位をかなり含んでいます。駅弁までは行かないものの、ほとんど持ち上げそうな対面座位や、松葉崩しから、私も映像で初めて見るような「押し車」まで繰り出すのです。おまけに、主人公は、ギリギリ合格した最初のテストでも、この女子大生とのセックスでも、本人が希望した再テストでも、必ずセックスの初盤で、激しくGスポットを擦って潮を吹かせようとします。

 潮吹きの王者ともいうべきAV男優加藤鷹でさえ、潮吹きは女性にとっては何の快感にもつながっていないと吐露していて、AVの演出としての見せ場である以上に、場合によっては女性の羞恥心を刺激する一つの演出になる程度でしかないと認めています。それを、ボスをも悦楽の極みに引きずり込むセックスでさえ、実際に潮吹きにもつながらないのに、主人公は延々娘相手にやっています。

 この時点で主人公はクラブの二枚看板の一人になっていますが、これがボスも認める最高レベルのセックスであるなら、AV業界の凡百のAVメーカは自分たちの絶大な影響力を本当に誇るべきだと思われてなりません。加藤鷹本人が師と仰ぐ代々木忠監督の珠玉のAV作品群のセックスや、セックス・ハウトゥもので今世紀国内最大のベストセラー作家となったアダム徳永推奨のセックスに比べて、どう贔屓目に見ても、主人公のセックスは対極に位置する「見せる商品」としてしか成立しにくい一般AV型アクロバティック・セックスです。

 放尿を見て欲しいフェチを隠し持っているOLや、手を握って話を聞いているだけでエクスタシーに達する老女のケースは取り敢えずセックスの行為そのものが登場しませんが、劇中に登場するセックスは基本的にアクロバティックなAV型のセックスなのです。本来のセックスの持つ深い陶酔につなげないことで、顧客をリピートさせる周到なマーケティング施策であるのなら、流石、女ボスは女性の性欲をよく理解したやり手だなと思われますが、結構、語る場面が多い彼女のセックス観の中に、そのような言及は存在しません。

 若い男娼ばかりいるので、そのような稚拙で乱暴なセックスがウリと言うのだとしても、それを求める女性ばかりがクラブに集まるというのもおかしい気がします。(もっと高い付加価値のクラブに深いセックスの陶酔を求める女性が集中していて、ここのクラブの客は奥イキも知らないようなレイパーソン層なのかもしれませんが…)

 このような貧困なセックス観によって、この作品の価値が貶められているように私には思えて、私にとっての松坂桃李の代表作は『ガッチャマン』に留まることとなりました。

 また、客の女性がそれなりのプロポーションやそれなりの美顔やそれなりの社会的常識のある人たちばかりであることも、少々美しすぎて、「どうよ」と思えます。さらに、そのような女性の好みを持つ男性も多くいることは知っていても、一般に年上女性にはあまり性的魅力を感じない私には、(お仕事だったら割り切れる部分もあるでしょうが)主人公がいきなり抵抗なく年上女性とガンガンセックスできることにも、ほんの僅かな違和感が湧く余地が残っています。それでも、先述のように、学びや気づきの多い映画でDVDは買いです。「押し車」が炸裂するシーンなどで、シアター内のカップル客の男性数人から「ホォ~」と小さな感嘆の声が漏れていましたが、この後、彼らがラブホでこのようなアクロバティック・セックスをスタンダードとして要求されるのだとしたら本当にお気の毒だと思います。

追記:
 ゴジラ生首映画館では、以前と異なり有人のカウンタでは通常のチケット販売を止めていて、前売券などを持っている客しか並んではいけないことに突如なっていました。おまけに混んでいるロビーでは、ベルパーの端にあるその表示もよく読み取れるアングルがありません。複数台ある自販機は行列になっていて、チケットカウンタは誰も並んでいなかったので、チケットカウンタに並んでみたら、いきなり断られました。お客様を迅速に捌くという鉄則を徹底するセブン‐イレブンなどを見習ってほしいものだと思います。先日行った錦糸町の映画館同様、この系列映画館はサービスの質を下げることには非常に長けているものと思い至りました。