『RAW~少女のめざめ~』

 2月2日の封切から既にまるまる1ヶ月以上経ったタイミングの水曜日、新宿武蔵野館のナンチャラデーで一律1000円の上映を午後4時から観て来ました。今尚1日2回の上映がされていて、取り敢えず、終映の予定は「3月下旬まで」と漠然とサイトに書かれている程度ですので、もしかすると、まだ完全にフィックスしていないようにも受け取れます。ナンチャラデーの関係もあるのだと思いますが、かなり混んでいました。少々早めながら1時間近く前に入館し、チケットを購入したのですが、モニタに映った100に満たない席は半数以上埋まっていました。

 観に行った数日後に国内の上映館数を調べたらたった3館しかなく、関東では武蔵野館1館で、他は東北と九州に各1館しかありません。館数が少ないからと言って、この映画を観に他の地域の観客が総動員して3つの映画館に集中するほどの人気作とは思えませんので、単純に、関東圏だけで見た場合に、それなりに人気作と言うことなのだと思います。シアター内の客層は私がほぼ平均値と思えるような年齢の男女ほぼ半々と言ったところでした。

 観に行くことにした動機は、偶然どこかで観たトレーラーがスタイリッシュなタッチで、印象に残ったことや、邦画洋画問わず比較的大作に偏りがちな映画鑑賞の対象作を少しマイナーな方に戻そうと考えたこと、さらに、明確にはトレーラーでは打ち出されていませんが、どうも、カニバリズムをテーマにした問題作と海外では話題になったということらしいこと、などがそれなりにぐちゃぐちゃに混じった状態でした。

 観に行く直前になって、それがフランス映画と知りました。当然、劇中の言語はフランス語ですので、聞いても全く分かりません。大体にしてタイトルもパンフに拠れば全くコンセプトが異なり、“grave”と言うタイトルです。この単語について監督の女性は、「フランス語の日常会話で頻繁に、時に本来の意味を間違えて使われている言葉」と言っていますが、その誤用のありかたは劇中にあり、「深刻で重大な物事」として口語で使われています。大学生が使う口語ですから、「ガチにマジ」、「ゲロマジ」的な表現が相応しいのかもしれません。本来は英語の“gravity”に通じる「重力」と言う意味で、「私たちの上に落ちるもの、そして私たちを地面に固定し重くのしかかる、リアルで明確で重大なもの」と言う主旨でタイトルになっているようです。

 英語以外の外国語の映画を観ると、このような周辺情報集めを英語映画で自然にやっていたことに気付かされます。

 1983年生まれのこの監督はフランスの名門映画スクール「ラ・フェミス」と言う学校を卒業してから短編映画制作を手掛け、カンヌでも受賞したことがあるとパンフに書かれています。実は、カンヌ受賞作『junior』を同じ女優を主人公にテーマもほぼ同じで長編に作り直したのがこの作品です。そして、この監督の長編初作品とのことでした。

 物語は、フランスの田舎に住む獣医の夫婦の二人いる娘のうちの下の娘が獣医学校の寮に着くところから始まります。1年上の姉も同じ獣医学校に在学しています。両親は妙に厳しいベジタリアンで下の娘もベジタリアンとして育てられています。ところが、入寮すると、学年ごとのスクール・カーストのようなものがあり、入学の通過儀礼として上級生から各種のおかしな行動規範を強要されます。入寮日にはいきなり上級生が大挙して寮の部屋に来て、ベッドのマットレスを全部窓から外に捨てたりしますし、四つん這いで屋上のような所に全員を来させ、そこで動物の血液を『キャリー』の名場面のように頭から浴びせたりします。

 これから始まる獣医として獣を知り、獣の血に染まる生活へのイニシエーションと言えば、一応分かりはしますが、バカは居るものだなとしか思えませんでした。入寮当日のバカ儀式の締めが、生の兎の腎臓を食べることでした。嫌がる妹でしたが、姉が「やらなきゃダメだ」と迫り、ベジタリアンの禁忌を破って口にします。(ちなみに、拒否する者も少数は居るようで、入寮日の記念写真で拒否したものは顔の部分が抉り取られています。)

 このタブーを破ったところから、主人公の妹は体に変調を来します。肉食への渇望が常に襲い、肉類のバカ食いが続きます。さらに体の表面に広く疱疹が広がり、酷い日焼けの水膨れの後の暑い皮膚の剥離のような、かなりの痛みを伴うあちこちの皮膚の剥離が始まります。寝ていても何かが体の中を駆け巡るような感覚で目を覚まし、悪夢も見ます。

 邦題の「少女の目覚め」は、この辺にフォーカスしたもので、少女が血に染まる生き物として生まれ変わる「初潮」を迎えることの比喩であることは明らかですし、監督もインタビューで「テーマはメタモルフォーゼ」とプリキュアか何かのような説明をしています。ただ、勿論、可愛らしく強い理想の形態に変身するのではなく、何者か分からない、自分でもコントロールの利かないものに、苦痛を伴いながらじわじわと変化する、不安や恐怖を伴う「変態」です。映画の『フライ』か何かを想起させるような変身と言うべきでしょう。

 家族がベジタリアンであった理由は、このためで、実はこの血統の女性は皆、カニバリズムに目覚めるということでした。姉はとっくの昔に目覚めていて、映画の冒頭にちらりと遠景で映る、当たり屋のような飛び出しで交通事故を起こしては、運転者や同乗者を食べていました。

 このどちらかと言うとハスッパでチンピラ臭い姉は人間の捕食者としては先輩で、妹と人喰いの秘密を共有しながら、その彼女なりに見出した生き方を妹に教えますが、それは交通事故による食糧調達も含めて、学業成績が優秀な妹にはなかなか受け容れられないものでした。姉妹の間には秘密の共有と人喰い価値観の共有と言う“慈しみ”がある一方、人喰いについての倫理観や社会観との整合性を巡って、強烈な対立もあります。

 たとえば、赤ん坊などを見て「食べちゃいたいぐらい可愛い」と言った表現をする女性がいますが、愛することと食べることは、多くの場合、人喰いの価値観では被っているようで、妹も初めてのセックスの相手に噛みついてしまいそうになり、自分の腕を噛み千切って衝動をやり過ごしています。

 対立構図の結果、姉は妹の初体験相手の男を刺殺し、男の片腿を大きく抉って食べてしまいます。人喰いの衝動に対峙しようと足掻く妹への嘲笑と当て付けでしょう。妹は姉を殺人者として告発し刑務所に入れます。対立しつつも引き合う姉妹なので、妹は面会にも行き、互いに何事かを交わし、頷きあいます。帰宅して食事後に母が皿を片付けに流しに立った際に、父が主人公に「自分なりに方法を見つけなさい」と声を掛けます。妹は「何の話?」と言うように恍ける風を装おうとしますが、父はそれが何を指しているか明言もせずに、「母さんもそうだった」と言って、いきなり座ったまま上半身だけ脱衣して見せます。その体は、噛み千切られた跡があちこちにあるのでした。そこで、唐突に映画は終わります。

 若い女性の人生に横たわる、初潮のメタモルフォーゼと深い愛情への貪欲との対峙。これを人喰いをモチーフに描いた美しい映画と言えます。遺伝による恐ろしい束縛の中で足掻く人間の姿を描いたと見ることもできます。色々な示唆を上手く溶け込ませていると思えます。

 誤って切断した姉の手指を妹が初めての強い衝動に駆られて、一心不乱に食べてしまうなどのグロ系の場面はありますが、所謂スプラッタ的なグロさはかなり控えめな方と思えます。そのスタイリッシュな美しさ故にDVDは買いかなと思います。ただ、人喰いと言う或る意味極端なモチーフに色々なものを詰め込んだせいで、各々のポイントを深めきることができていないままに終わったという気も、2014年に観たフランス映画『17歳』と比べるとしないではありません。

 最近、人喰いは国内の多くの作品でテーマになっているように思えます。『進撃の巨人』も『東京喰種』も『寄生獣』もそうですし、『GANTZ』の最終エピソードに登場する巨人エイリアンも人類をバンバン捕食していました。

 私が最近嵌っているテレビ(?)・シリーズ『仮面ライダーアマゾンズ』は、このテーマを限界まで掘り下げているように思えます。『GANTZ』はコミックでしか読んでいませんが、他はどれも実写の映像で観ています。グロい表現は連発しますし、『仮面ライダーアマゾンズ』に至っては、人間の手先となって人喰い生物であるアマゾンを狩るアマゾンもいれば、飢餓感に苛まれながらずっと人を喰わない選択を続ける隠遁のアマゾンも登場します。勿論、大っぴらに人を殺しては喰って、人類との実質戦争状態に至っている者もいます。

 テレビも含めて、表現の規制がエロ要素については厳しくなったせいで、グロの方に刺激を求めるトレンドがよってきたのかもしれませんし、現実社会の方が余程SF的になってきたので、色々な意味不明の動機を伴ったエイリアンの侵略よりも、直截的に人間を喰おうとする異種生物などの方が恐怖を惹起するのかもしれません。火葬文化には馴染まないと思える関係で、私が今一興味を持てないゾンビ系の映画やシューティングゲームなどの延長線上の人体破壊と捕食の伝統と見ることもできなくはありません。(ただ、ゾンビの場合は、人体全体を完全に捕食すると個体数を増やすことができませんので、捕食要素は大きくありません。)

 好きな『仮面ライダーアマゾンズ』では、迷い込んだ人間を食材として調理するアマゾンがひっそり食事をするレストランがありましたし、映画で観た『東京喰種』では穏健派は、自殺者の死体を集めては食糧に加工するという、かなり社会性の高い集団でした。さらに、『寄生獣』では寄生生物たちが一ヶ所に寄り集まって、政治に打って出て特定の市の政治を牛耳ることで、幾つかの「食堂」の維持管理をルールとして運営する試みがありました。

 人間側の制度では「犯罪行為」となる食事をどのように継続的に完結させ続けるかと言うのが、これらの人喰い生物たちの日常的な大問題となります。多くの日本の作品はその答えを何とか編み出しています。食料の調達も隠蔽しなくてはなりませんが、残った食材をどうするかも問題になります。この作品に登場する姉の調達方法は、監視カメラもなさそうな田舎道での行為とはいえ、今どきドライブ・レコーダーもあるでしょうし、簡単に問題になりそうです。食べる量もそれほど多くないようですから、二人も三人も一度に死体が出てしまった場合はどうするのかなどの問題も大きいように思えます。(『寄生獣』では、行き掛かり上、多人数を殺してしまった場合、「手伝ってくれ」と仲間を呼んで、フード・ファイターのように頬張りあうようなシーンまであります。)

 美しい画像の短い尺の作品にまとめる関係上なのか、フランス映画に多い観念的な構図の提示だけで細部に拘らない作り故のことなのか、このような人喰い生物(と言っても、この作品では人間ですが…)の社会生活面が少々ご都合主義のままに終わってしまっているのが、難点と言えば難点かもしれません。